2004年12月12日 「夢見る人」

マタイ福音書1:18-24/イザヤ書7:10-14

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このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、・・
その子をイエスと名付けなさい。・・
その子はインマヌエルと呼ばれる。」・・
その子をイエスと名付けた。(マタイ1:20-21,23,25)

<イエスという名>

  マタイのクリスマス物語の中で、一章一八節〜二四節の短い話は、この福音書の中心的な関心をよく伝えている。それは主イエスの名に対する注目である。イエスは、元来、ヘブライ語ではイェホーシュアと発音され、「主は救い」というは意味である。イエスとは神の救いなのだというその意味において、マタイはこの名に関心を集中している。実際、イエスの名は、マタイ全編を通じて一五○回に渡って記されていて、それはマルコやルカのおよそ二倍に近い。如何にマタイが神の救いとしてのイエスを私たち読者に訴えようとしているか、その強い思いが窺われる。その強い思いが凝縮して現れているのが、このヨセフの物語だといえるのではないだろうか。

<イエスを名付ける>

 神の救いであるイエス、その名を付けた人として、ダビデの子(=子孫)ヨセフはこの物語に登場してくる。このイエスを名付けるという行為は、何を意味しているのだろうか。しばしば、主イエスをダビデ王の血統に位置づけるための必要から、ダビデの末裔のヨセフが、その役を与えられたのだという説明がなされる。しかし、神の救いなるイエスへの信仰を訴えるこの物語のテーマに照らして考えれば、ヨセフの存在は単なる血統保証の役者というには留まらないのではないだろうか。ヨセフが幼子をイエスと名付けるという行為をあらためて注目しなければならない。しかも彼にとっては、強い葛藤なしにはとても向き合えない幼子を、イエス、すなわち神の救いと名付けるのである。やって来る幼子の故に葛藤するヨセフについて、新共同訳聖書は二○節を「このように考えていると」と訳しているが、ある注解者はこの箇所のニュアンスを生かして「これらのことを〔悶々として〕思いめぐらしていると」と訳している。ヨセフにとってイエスを名付ける行為は深い信仰の決断を伴う事柄であったはずだ。その決断に踏み出すヨセフに、キリスト信仰に立とうとする告白者の姿を認めるのは、それほど困難ではないだろう。

<夢見る人の信仰>

 イエスの名付けに踏み出すヨセフについて、マタイは、彼の決断が夢によって導かれたと語る。夢は頼り無いものだとも言えるが、古代イスラエル人の信仰では真実な神の導きの手だてともなり得ると信じられていた。マタイはその伝統に立って物語を構成している。とくに創世記がマタイの背景にあると見ていい。創世記二八章一二節以下のヤコブの夢の物語を思い出すとよい。そこでは寄る辺ない旅にさまようヤコブが夢の中に主の現れに接して、自分は決して独りではなく神の前に生かされていることを自覚している。また三七章五節以下ではヤコブの子ヨセフが、夢を通じて神は未来に明らかにされるご計画を持っておられるという気づきを与えられている。神の前に生かされる現在とさらに未来の導きへの自覚、それらが夢を通じて示されるのである。この創世記の夢の意味は、そのままマタイの記すヨセフの夢に通じていると言っていいだろう。ヨセフは、神の前に生かされ未来に導かれる人間であるべく、無力な幼子をその希望の徴として示されたのである。そしてマタイの物語は結論だけを語っていく。ヨセフは悶々とした受け入れ難い葛藤を越えて踏み出し、神の示しに従いその幼子を神の救いと呼んだというのである。この叙述には、ヨセフの心模様を語るような何の文学的技巧もない。しかし、このマタイのぶっきらぼうさは、メッセージの中心をハッキリさせてもいる。ヨセフの告白は、単に口で唱える告白ではなく、彼の生き方をかけた服従の行為だったということである。夢見る人ヨセフは、その信仰の服従に支えられて人生の危機を突破して生きる人となったのである。

<幼子イエスによって>

 こうしてヨセフにまつわるマタイのクリスマス物語は、ただ一つのことを私たちに問いかけて終わるのではないだろうか。あの受け入れ難い無力な幼子をあなたは誰であると告白するか、いや告白するだけでなく、日々この方に従うかと、問うているのである。かつてクリスマス物語の信仰についてマルチン・ルターの語った言葉が残っている。ある人がクリスマスの物語は、あまりに信じ難いことだと言った時である。彼はこう答えたという。クリスマスにおいて本当に信じ難い奇跡はおとめが身ごもったことではない。むしろ人間の心にあの幼子を神の救いと信じる信仰が宿ることだと。しかし、この信仰の先達の言葉に敢えてつけくわえたい。クリスマスの奇跡とは、私たちの心にあの無力な幼子を神の救いと信じる信仰が宿るだけのことではない。私たちが神の救いを幼子のうちに認め、この方を愛し従うことで、危機や困難に逢いつつも、いまも生かされているという人生の事実のことだと。これこそ驚くべき感謝なのではないだろうか。

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