2004年12月5日 「労して生きる人の主」

マタイ福音書11:2-19/士師記13:2-14

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『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。(マタイ11:10)


<待望の人洗礼者ヨハネ>

 

 「前世紀末、二十一世紀は平和に向かって事態はよくなると期待したが、それは遙に遠ざかったのではないか。私たちは、今や破局の方が遙に近いものに感じられて胸がつまる思いで平和を待望している」。こう語った人がいる。胸がつまる思いで平和を待望する。このような思いこそマタイ一一章二節以下の洗礼者ヨハネの言葉に込められた切迫した思いと通じているのではないだろうか。洗礼者ヨハネは、主イエスにやや先んじて活躍した宗教指導者である。彼は、当時のユダヤ社会が破局の危機にあること、しかし、社会の指導者たちはその自覚すらなく、その突破の道は、神の教えに照らして一人ひとりのユダヤ人が生き方を悔い改める以外にないことを確信した。彼は、人々がその悔い改めの心を洗礼を受ける行為で表現するように訴えた。宗教の権威者たちはヨハネの考えを真面目に受けとめなかった。政治の支配者たちは自分たちへの批判者として彼の命を奪うことを考えた。マタイは、その時代の動きの中で、ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって投獄され、処刑が迫っていた状況から、主イエスにある事を問うたと伝える。主イエスは当時ほとんど唯一ヨハネの思想を理解し、また深く共鳴した方だった。彼はヨハネから洗礼を受け、ヨハネも主イエスに来るべき指導者を期待したと思われる。

<ヨハネの問い>


 「来たるべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」(三)。これがヨハネの問いだった。神に従う生き方に立って、本物の平和の到来を熱望したヨハネ。その一切の努力が理不尽な支配者によって突如断ち切られようとしている。ヨハネは何を問うのだろうか。自分は殺されて終わる。後を託する人がいると信じてきた。しかし、状況はさらに悪くなっているとしか見えない。期待したイエスの働きも苦闘を強いられている。この人に望みを託していていいのか。その切迫した心が伝わってくる。ヨハネが事実としてマタイの伝えた通りに主イエスに問いかけたかどうかは定かではない。しかし、私たちはヨハネの問いが、彼一人のものでないことは分かる。信仰の希望に支えられて労苦してきた人が、平和への祈りも努力も砕かれようとしているならば、誰もが抱かざるを得ない問いではないだろうか。

<それはキリスト者の問い>


 マタイはこの点に気づいて、一○節にそれを示唆する。「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」。この節はマタイの挿入であろう。彼はマラキ書三章一節を彼なりの解釈の下に引用している。その解釈を逐語的に言えばこうである。注目せよ。神は、主イエスに先立って使者を遣わす。その人は主イエスが来るまでの準備をする。もっと砕いて言い換えられる。主イエスはやがて来るのだ。人間はその準備に働くのだ。さらに一言で言える。神は今まさに人を用いておられるではないか!一○節はヨハネの問いにこう答えているのである。ところが、マタイはこの答えをヨハネには与えていない。ヨハネの弟子たちは既に去り、この答えは主イエスの弟子たちに与えられているのである。それは、マタイがこの答えが必要なのは、キリスト教徒たちだと考えたからではなかっただろうか。マタイの生きた紀元七○年代のキリスト者たちもまたヨハネに似ていた。彼/彼女らは再臨の主イエスによる神の裁きが間近く到来するという信仰を心の支えに、平和を証する生活に努めていた人々だったのである。しかし、それはローマ社会の支配者たちの圧倒的な暴力や圧政に挫折を味わう苦しみも伴っていた。その中で、主イエスに望みを託する信仰の生き方に躓きや挫折を感じたキリスト者たちもあっただろう。マタイはそういう信仰の友に語ったのである。怯むな、主が来られるまで。なぜなら、今まさにわたしたちは神に用いられているのだからと。

<反対が示すもの>


 しかし、マタイは、神の未来に確信が揺らぐキリスト者に、主イエスは間違いなく救い主だと説得するのではない。強い信仰をもつ者が救われると諭すのでもない。今あなたは神に用いられていると言うのである。そこには何が示されているのか。私たちは、平和への証がいつも同意をもって受け入れられるのではないことを知らねばならない。むしろ、平和を後回しにする人がいつでもどこにもいるのである。その人は好戦主義者とは限らない。平和が後回しである理由を語る。安全のため、正義のため、信仰のため、国家のため、時には平和のために、平和は後回しだとさえ言う。しかし、多くの場合、そこには共通する但し書きが添えられている。「ただし、この安全、・・・には、私たちだけが含まれる」と。他方、ヨハネが待望し、主イエスが生命を献げ、キリスト者も求め続けた神の平和にこの但し書きはない。だから神の平和を志し、そのために努力する人は、いつの時代もどこでも、ある人々からは嘲笑や迫害されることを免れない。だから、平和の証ゆえに迫害を受けていることは、まさにそのキリスト者が神に用いられていることの徴なのである。私たちには覚悟が必要である。人間の歴史が続く限り、私たちの待望も続く、いや続かざるを得ないと。しかし、その中に苦闘する人々と共に主イエスの神は働いておられ、待望の時代の終わる日までそれは貫き通されるのである。

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