2004年11月28日 「目覚めている人

マタイ福音書24:36〜44/イザヤ書2:1〜5

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だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。(マタイ24:42) 

<目を覚まして>

 「目を覚ましていなさい」。マタイ二四章四二節は、命令形でこの戒めをキリスト者に投げかけている。マタイ福音書がこのような戒めの言葉を記したのには事情があった。ある人々がキリスト者として生きることに緊張感を失い怠慢に陥っていたと考えられる。マタイ福音書は、おそらく紀元七○年代にシリアのユダヤ人キリスト教徒が中心となっていた教会で編纂されたと思われる。その教会員の間にも、この世の終わりが近づき、神の裁きの日が来るとの初代教会の信仰は受け継がれていた。しかし、終末の裁きの教えに対する人々の反応は、必ずしも一つではなかった。ある人々は、終末の教えに照らして、神をおそれ主イエスに従う生活を保ち続けることに熱意を失っていた。神への祈りと隣人への奉仕は後回しにされ、自分本位の関心ばかりが心と生活を占めるようになっていたと言ってもいいだろう。怠慢な生き方に陥っていたというのはそのことである。マタイは、そこから終末を意識した生き方をあらためて真摯に求めよと、主イエスの説話に託して語りかけたのではないだろうか。

<熱狂に陥らず>

 他方、同じマタイの教会には、緊張感を失って怠慢に流れるのとは別種の問題もあったと思われる。たとえば二四章六節は次のように語る。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。ここでは、問題は、ついに世の終わりが来ると慌てふためき、日毎の堅実な生活を心掛けなくなる生き方である。もっとも、ある人々がそうなる理由がなかったわけではない。六節が「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」と言っているのは、紀元七○年のエルサレム壊滅と住民虐殺を招いた対ローマ抵抗のユダヤ戦争のことであった。この戦争の中でローマ占領軍の手でおびただしいユダヤ人の生命が奪われ、民衆は生活を破壊されて難民が溢れたのである。マタイ教会のユダヤ人会員たちには、戦乱の祖国から身内の悲劇の知らせが届いたり、難民となって実際に逃れてきた人々がいたことも想像に難くない。神の都と見なされたエルサレムが崩壊していく凄惨な地獄絵図を見たり聞いたりしたキリスト者たちが、それを世の終わりの到来の信仰と結びつけて、ショックや不安に動揺する人もあったであろう。マタイは、それらの人々を戒めているのである。慌てるな、落ちつけ、キリスト者は、このような時こそ、時代の熱狂に飲み込まれず日毎の生活に腰を据えて取り組め、これがマタイの主張だったのである。

<やめないこと>

 こうして、マタイは、終末の裁きの教えを聴く一人として、キリスト者に動揺や熱狂を戒め、同時に熱意のない怠慢な生活も退けているのである。私たちは、このことを踏まえて、あらためて「目を覚ましていなさい」との戒めを理解する必要があるのではないだろうか。ある注解者は、目を覚ましているとは、先ずその人が何事にせよ自分の生きる場をしっかりと見つめていることを意味していると指摘した。この指摘は適切ではないだろうか。そして私たちは何を見つめているのであろうか。マタイの文脈から言えば、それは自分の時代の戦争や不安の中で、宗教的熱狂に陥ることではなかった。また社会や隣人の幸いに無関心になって自分の幸いだけを追求することでもない。なによりも、終末の裁きの教えによって、私たちの信じる神ご自身がそのような方であると教えられているからだ。神は世界と私たちの運命に最後の決定を与えられる。それは、神が世界と人間一人ひとりの生き方に目を注いでおられるということに他ならない。だから、私たちが目覚めて生きることは、人々を不幸に追いやる時代の問題をしっかり見抜こうと努めることである。苦しむ隣人の幸いに想像力を働かせることである。隣人と分かち合う幸いを求めて祈り労することである。それらの営みを自分の生かされている場で、どんなに小さくてもやめないことである。しかし同時に人間の手には究極の解決はないと謙遜になることである。そして神だけが究極の希望を実現することを心から信頼し続けることである。

<いまここで目覚めて>

 とはいえ、実際のキリスト教徒の歴史は、終末の裁きの教えを受けとめるのに未熟であったことが多いのも事実である。ある人々は、今もなお終末と裁きの教えを宗教的熱狂に歪めてしまっている。逆にまるで世の裁きの信仰など知らなかったかのように、この世の一部と化したり、世の大きな力に迎合して自らを貶めている人々さえあるのではないだろうか。それらキリスト者自身の罪の破れを振り返るとき、時代や社会と永遠をつないで生きる成熟した信仰が、今もどれほど私たちの課題であるかを考えないわけには行かない。その意味で、「目を覚ましていなさい」という戒めは今も私たちへの挑戦として響いてくる。私たちは終末の到来と主の裁きを信じる信仰の故に、腰を据えてこの時代を生きる隣人に同行しようとする自分でありたい。しかし同時に時代に同化も迎合もしない人でなければならない。同行しつつ同化せずの人、それがわたしたちが、信仰の教える終わりの日に向かって、いまをここで目覚めて生きる姿なのではないだろうか。

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