2004年11月14日 「愛敵の祈り」

マタイ福音書5・38〜48/申命記18・15〜22

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敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

■子どもたちに■

<いのちを狙われたイエス様>

 イエス様は、皆が争ったり傷つけ合うことに心を痛めていました。神様は、けっしてそれを喜ばない、みんなが大切にしあうことを喜ぶお方だと信じていたからです。ところが都エルサレムの身分の高い人たちは、口先では「神様、神様」と言いながら、他の人たちに対して威張りちらし、暴力を振るったりしたのです。ある時、主イエスは、身分の高い人たちがやっていることは神様の前に間違っている、それを改めなさいと、はっきり言い表したのです。それを知った身分の高い人々は、とても腹をたてました。そして、ついにイエス様を捕まえて殺してしまおうと決めました。イエス様はどんな気持ちだったことか。私だったらそんな人たちなど決して赦す気持ちになれない気がします。

<敵のために祈る>

  ところが、イエス様は、ある日、弟子たちに、自分の命を狙う人たちについて言いました。あの人たちは、私の言葉に耳をかさないで、私を敵だと言っています。だから殺してしまえと言っています。でも、あの人たちは、今とても間違っているけれど、みんな神様からいのちをいただいた人たちです。わたしは、あの人たちを憎んでいません。何とか神様の子どもとして助け合えるようになりたい。だから、あの人たちが、自分の思い込みに気づいて、神様の愛を思い出してほしいのだ。あの人たちのためにそのことを祈っている。きみたちも私と一緒に祈ってほしい。こう話されたのです。そのことを短い言葉で言いなおすと次のようになります。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」私たちもイエス様のように祈る一人ひとりになりたいですね。

■大人たちに■

<弟子たちの愛敵の祈り>

 

主イエスによって「敵を愛し、自分を迫害する者のために」促された祈りを「愛敵の祈り」と呼びたい。そして、この祈りを最初に献げのは主イエス自らだったであろう。主イエスの祈りは決して抽象的な祈りではなかったはずだ。彼は律法学者やファリサイ人など、実際に彼の生命を狙って敵対した人々のために祈った。その祈りを生きた人として弟子たちを祈りに促すのである。それでは弟子たちにとっては、愛敵の祈りとはどのような祈りとなったのだろうか。それを示すのが、続くマタイ六章九節以下ではないか。「主の祈り」である。この祈りにおいて、弟子たちは、自らの愛敵の祈りの意味を示される。主の祈りは先ず冒頭から神の支配を求める。すなわち、主イエスは、弟子たちにとって、最優先すべきは神のご支配なのだと教える。これは決して人間はどうでもよいというのではない。そうではなく、人間は、神の御手が養い支えなければ何もできない存在、死にゆく相対的な存在であることを示しているのである。そのことを自分の存在の真実と受けとめた人は、次に続く自他の罪の赦しを祈らざるを得ないのではないだろうか。それは、私たちの誰も完全に罪なき人はいない、誰もが神の赦しによってこそ生かされていると認めるのである。そのことに気づくからこそ誘惑に対する弱さも自覚される。それ故、誘惑に合わせないで下さいと懇願して祈りは結ばれる。こうして主の祈りは私たちを自己絶対化や思い上がりの落とし穴から救い出す。罪と弱さの自覚と共感をもって、また生かされている感謝の中に他者と出会わせるのである。これこそが弟子たちに示された愛敵の祈りの意味ではなかっただろうか。

<愛敵を祈るとき>

 愛敵の祈りを祈るとき、私たち誰もが、自らの、また敵対する者の罪と弱さへの気づきを抜きには祈れない。敵対する相手を愛して祈るとは、相手を下に見て憐れんでやることではない。敵対者を愛して祈るとは、決して自分が立派だからそうできるということでもない。敵対する人を愛する祈りは、砕かれた心に生まれる祈りである。それは自分と相手とお互いの罪と弱さに気づかされた者として、神の前に砕かれて低くされた心に生まれる。敵対者を愛する祈りは、感謝の中に生まれる祈りである。罪と弱さにもかかわらずなおそれぞれに赦され生かされていると知った感謝の心に生まれる。しかし、はたして、私たちはこの意味で愛敵の祈りを祈っているだろうか。マタイは、この祈りを記しながらも一つの躓きの姿を示している。彼は主イエスの愛敵の祈りを必ずしも十分に理解していない。五章四六節〜四八節は、マタイの加えた説明であるが、ここに彼の見当違いが窺われる。つまり彼は、明らかに徴税人や異邦人を下に見ている。それは決して主イエスの見方ではなかったはずだ。むしろ主イエスはそれを退けた。しかし、マタイの見当違いは私たちにとって決して他人事ではない。彼の見当違いは、時として私たちの陥いる所でもあるからだ。私たちは敵を愛して祈れとの主イエスの促しに答えたいと思う。その時、くれぐれも心にとめたい。主の促しに答えて祈り続ける人は、それまでの思い上がりを砕かれて、神と隣人に開かれて生きようとする者にその人自身が変えられ新しくされていくのである。

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