2004年11月7日 「信仰によって生きる人々

ガラテヤの信徒への手紙3:1-14/創世記13:1-18

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信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(ガラテヤ3:7)

<ユダヤ教的キリスト教を意識して>

 冒頭の一節のように読者に語りかけたのは、主イエスの死後まだ二十年を過ぎていない最も初期のキリスト教徒の一人パウロである。彼がこの一節を含む書簡を書いた当時、元々、ユダヤ教徒だった人々から始まったキリスト教の信仰は、ユダヤ的な宗教観念に色濃く影響されていた。パウロがこの手紙を送ったガラテヤ地方のキリスト教会は、ユダヤから遠い今日のトルコ共和国中部に点在していた。しかし、ユダヤ人キリスト教徒の影響が入り込んできた事情は他と同様だったようだ。パウロもユダヤ人ではあったが、「信仰によって生きる人々」と言うとき、彼はユダヤ教的な信仰の見方のあるものに強い警戒心を抱いていたと見ていい。それでは、彼が警戒したユダヤ教的キリスト教徒の考えとは、どのようなものだったのだろうか。

<律法主義に固執せず生きる>

 パウロが警戒したのは、ユダヤ教の中心となる律法と言われる戒律を、キリスト教徒になっても頑固に固執する立場の信仰だった。律法とは、創世記から数えて五巻、いわゆるモーセ五書を基盤にした戒律である。ユダヤ教はその戒律を守ることを神に受け入れられる決定的条件と見た。その立場をキリスト教徒になっても、そのまま固執した人々がいたのである。彼らはキリスト教にも戒律として律法が不可欠と考えた。このような人々の心には、世の少数派であったし、歴史に登場して間もないキリスト教信仰に生きる不安があったかも知れない。つまり、これらの人々は何かの権威に保証された信仰を求めていたと言えるかも知れない。そこでキリスト教信仰の真理性を保証してくれる権威として伝統の律法に固執したのではないか。なるほど、内なる信仰を外から保証する権威があれば、世の評価も得られて少数派の不安は和らぐ。さらに戒律は人の生き方について出来上がった答えを用意している。善悪は細かに定まっているのだから、自らが生き方を考え抜いたり決断したりする必要はない。キリスト者はそうはいかなかった。誕生間もないキリスト教には、主イエスの示した愛を導きとする他、人間の生き方に既成のマニュアルはなかった。実際、復活の主イエスの導きを信じるキリスト教徒は、その祈りの生活の中で神の導きをその都度見いだしていく経験をしていた。太古のキリスト者とは、信仰の故にかえって深く考えて生きようとする人、またそう励まされて生きた人だったことを忘れてはならない。

<主イエスとの出会いこそ>

 いずれにせよ、ただ主イエスをキリストと信じて従う姿勢を人生の根底におく信仰の生き方に、権威に頼みたい律法主義の人々は批判を浴びせた。その批判がガラテヤのキリスト教徒たちに、一度は動揺を与えたのである。しかし、ガラテヤの教会員たちは、その動揺を越えてパウロの伝えた主イエスへのキリスト信仰を忠実に育んだと思われる。つまりこれらの人々の信仰の拠り所は一つだった。世の苦しむ者、悲しむ者、渇く者に奉仕し、ついに自分を与え尽くした主イエスの十字架に神の無償の愛を見いだし、さらに殺された主イエスは今なお信じる者の心に神によって生かされていると信じたこと、そういう体験をしたことであった。ガラテヤのキリスト者たちは、その信仰と体験を大切にしながら神の愛への信頼を育んだ人々であった。なるほど、人々の信仰のきっかけはパウロの証言を聴くという外からの出来事によって始まったであろう。しかし、決定的なことは、ガラテヤの人々が自分の心に受けとめた主イエスとの魂の出会いという内なる経験である。その信仰は決して外からくる世の権威によるのではなかったのである。キリスト教信仰は外からの権威の保証で信じられているものではない。キリスト者の信仰とは、キリストと信じるイエスとの一人ひとりの心の奥深い魂の出会い、人格の交わりの中にだけ生きた真理となるのである。それは今日も変わらない。

<憐れみに支えられて>

 続いてパウロはキリスト者の信仰を生きる人を「アブラハムの子」と言う。ここで彼はアブラハムという人物のイメージによって、キリスト者の信仰の姿をさらに鮮明に示すのである。しかし、そのアブラハムを確信に満ちた強い信仰の人と受け取るのは適切ではない。創世記のアブラハムは、信仰の人である前に、実に無力な寄る辺ない人である。彼は「滅びゆく一アラム人」(申命記二六・五)と記されて、神の助けがなければ歴史の片隅に人知れず消えていった弱小者として理解されている。だからこそ、神は彼に現れてくださり、生命の土台となる土地と家族を約束される。こうして創世記一三章はアブラハムの信仰の強さではなく神の憐れみの深さを語るのである。その憐れみの神にアブラハムは誇って献げられる何物も持ってはいない。彼が差し出し得たのはただ感謝とまだまだ心もとない信仰の心だけだった。神の無償の愛こそアブラハムの信仰を存在させている土台である。キリスト者の信仰もまた、主イエスの十字架の愛によってだけ存在することができる。この意味で私たちはアブラハム的信仰の子だと言うのではないだろうか。そして、まさにこの意味で、私たちが記念の中に覚えている人々もまた、憐れみの信仰に生かされた人々、また自らは知らなくとも神の無償の愛に支えられた人々だったのではないか。いずれ私たちも世の生を終わる。願わくは、生かされているいま、主イエスとの出会いに自らの信仰の心を開く者でありたい。

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