2004年10月31日 「すべての人の神

ローマの信徒への手紙3:21-28/イザヤ書44:6-17

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ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。(ローマ3:21-22)

<神と共に歩む>

 私たちプロテスタント教会が信仰の上で根本的に問題としていることは何か。プロテスタント教会の出発の時代を生きた宗教改革者マルチン・ルターは、一六世紀のローマ・カトリック教会の教えに疑問を抱いた。彼は当時の教会の教えに聖書の示す神との真実な出会いと交わりを見いだせなかった。そこでルターは、私はどのようにして真の神と出会えるのか、神との喜ばしい交わりの内に生涯を送れるのかと問うた。つまりルターの問題とは神との真実な出会いと交わりであった。だからこそ、神との和解、イエス・キリストの贖い、さらに信仰の義と表現される事柄が真剣に論じられたのである。このルターの問いは、時代を隔てた今も決して彼だけの問題ではない。およそキリスト教信仰に耳を傾けている人は、誰もが同様の問いを抱いてきたことだろう。私はどのようにして聖書の示す神と出会えるのか、またどのようにして神と生涯に渡って絆を結んで歩めるのかという問いである。

<排除の神信仰>

 ローマ書三章二一節以下は、「信仰による義」と表現しながら、私たちの問いにパウロが答えている。ユダヤ的信仰の深い経験を持つパウロの言葉は、今日の私たちにとって難解な所がある。そこで私たちは細かな論議の迷路に入り込まないで、最も中心的な主張に集中するのが賢明であろう。その視点から二一節を見ると、中心となるのは「神の義が示された」という主張である。神の義とは、文字通り神の正義と訳せる。いわば神が人に求められる<あるべき関係>である。パウロはその神−人のあるべき関係について「律法と預言者」に触れる。これはユダヤ的な表現で、私たちの言う旧約聖書を意味する。つまり旧約聖書に見られるユダヤ人の信仰の経験を通して、またそれを乗り越える内容で、神−人のあるべき関係とは何であるか示されたとパウロは語るのである。彼の言うユダヤ教徒の経験とは何であろうか。結論を言えば、律法という戒律にこだわる所に窺われるように、私たちが神と出会い交わりを得るには、宗教戒律を厳しく守るという条件が欠かせないという信念である。神に受け入れられるためのユダヤ教の条件は戒律厳守だった。しかし、神に受け入れらる人間の条件を教えるのは、ひとりユダヤ教に限らない。当時の諸宗教は、神に気に入られ受け入れられるには、人間に特別な条件が求められるのは当然と見なした。ある神は血統という条件によって受け入れる人と排除する人を決めると考えられた。ある神にとって条件は献げ物の大小多寡だと考えられた。こうして神々に気に入られるには、今日風に言えば、知力、経済力、家柄、血統など、いずれにしてもこの世の力が必須であった。神々はその力なく条件に満たない者は退けた。これは人間生活の事実としては、貧しく悩み多く生きる多くの人々は、どこでも結局は神々の祝福から排除されることを意味したのである。

<正義を与える神>

 かつてユダヤ教徒からキリスト教徒に回心したパウロは、過去の信仰の中にそうした排除の神信仰を見ていたのではないだろうか。事実そこでも多くの貧しい人々は排除されていた。「ところが今や」排除の神信仰を越えて、人にあるべき関係をもたらす神の正義が示されたと彼は言う。それは二二節が明瞭に語る。「イエス・キリストを信じること」、それが神の正義だと言う。パウロは、十字架の死まで慈しみの神を信じ抜き、全てを献げた主イエスに救い主=キリストを確信していたのである。彼は主イエスという方こそが、人を聖書の神との出会いに導き、神の赦しに与らせ、真実な交わりのうちに人生を全うする道を開く、その意味で救い主だと固く信じていたのである。そして、そのキリストとして受け取めた主イエスへの確信を貫こうと志を抱く人を、主イエスの神はあるべき神との関係に生きようとしている人として受け入れておられるというのである。そのとき、主イエスの神は、神の好意を得ようとアピールする能力や条件によって人を別け隔てしない。神は求める人に神の正義を価なく与えられるのである。人が神に出会いたいと望むならば、決してその人を排除せずその人と出会ってくださり、赦しを与え、生涯の神となってくださるのである。

<すべての人の唯一の神>

 パウロは、大切なのは主イエスをキリストと信じ従う志を差し出すことだと告げる。主イエスの神が唯一の神であるのは、諸宗教が人に負わせたこの世の条件という差別を越えて、全ての人のための神となる神だからである。他方、私たちキリスト者が、唯一の神とは排他的な最高神としての神だと誤解してきたのも事実だ。そこからキリスト教絶対主義の独善と奢りも生まれた。今だそれに捕らわれている人々もいる。しかし、主イエスの神はそうではない。すべての人の神となってくださることにおいて唯一の神であり続けられる。この神であるからこそ、私たちは主イエスを見上げ彼に倣い、あるがままの姿で神の前に立つことが許される。そして、神は私たち一人ひとりに出会ってくださり、人生の道行きをいかなるときにも先立ち後押しして歩ませてくださる。その歩みを既に生かされた者としてパウロは証したのではないか。その真理再発見を記念する朝、彼の証は今日も私たち一人一人の人生の証ともなり得る。そのことを改めて心に刻みたい。

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