2004年10月24日 「勇気の根源

マタイ福音書10:28〜33/箴言8:1、22〜33

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 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

<死の覚悟と逃走の促し>

 マタイ一○章二八節は、伝道に働くキリスト者への戒めとして語られた。これだけを聴くと死も辞さない鉄のような覚悟を求めている。しかし、自分の命を省みない覚悟こそが伝道に働く者の最高の理想であるかのように受け取るのは、決して的確な理解とは言えない。二八節は前後に注目すれば容易に分かるように、一○章全体を通じて語られる伝道の働きについての戒めの一つとなっている。そして、一○章の中には死の覚悟とは正反対とも見える促しもある。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(二三)。ここでは、さっさと身をかわす逃走の知恵が求められている。死の覚悟と逃走の知恵。一見して矛盾と見えるような指摘が主イエスのことばとして、ほとんど同じ文脈の中に語られる。これはいったいどのように考えればいいのだろう。私たちが二八節に秘められたメッセージを的確に聴こうとするならば、伝道するキリスト者に求められた死の覚悟と逃走の知恵との本当のつながりを見極める必要があるのではないだろうか。

<志は殺せない>

 マタイは、キリスト者を殺してもその「魂を殺すことができない」と言う。ここで注意すべきは、マタイが、人間は肉体と魂からなるという彼の人間観に同意を求めたのではないことである。むしろ大切なのは、一人のキリスト者を殺しても、その人の存在は別の次元で、なお生き続けると確信している点である。マタイの訴えは、彼より古い伝承と認められるルカ福音書の並行箇所に照らしてみると、私たちへのメッセージが明らかになる。ルカ一二章四節は次のように言う。「体を殺しても、その後、それ以上 何もできない者どもを恐れてはならない。」ルカは、キリスト者の命を奪う者は肉体の抹殺まではできると認める。しかし、その後のことには無力なのだという。つまり、キリスト者は殺されて終わりではなく、殺した者たちがどうにもできない何事かが、その後に起こって行くというのである。これは、キリスト教史の最初の数世紀に起こったある一連の事実によってよく分かる。つまり実際の歴史では、一人のキリスト者を殺しても、キリストの福音はさらに多くの人々の心を捉えてキリスト者が増えていった。この事実はどんな雄弁にもまさる。それは、キリスト者が志したキリスト証言は、その人が殺されても、生きて人々の心に訴えかけ、新たな志と証言と人生を誕生させるということである。結局、キリスト証言の志こそ、キリスト者を殺そうとも、さらに多くの人々の志となって生き続けるのである。マタイもルカもこの事実を踏まえて、それぞれの確信のことばを語ったのではないだろうか。彼らの確信とは、キリストを示そうと生きるとき、たとえ命を奪われても、その人の死は決してその人の存在の最後とはならないということであった。

<ただ神こそ>

 いずれにしても、マタイ、ルカの言葉によって、紀元一世紀末のキリスト者は、伝道に働く中で迫害を受け、時にはいのちを奪われたことが分かる。まさに現実は死の覚悟が避けられなかった。しかし同時に、殺されることは決して望ましい事態ではなかったはずだ。だから可能な時には逃走の知恵が不可欠だと促されたのではないか。主イエスから始まり、最初の弟子たち、さらにその後数世紀のキリスト者たちは、しばしば迫害に直面した。ついに命を奪われた人も少なくない。一方に最後の決断を求められながら、同時に最後まで諦めない粘り強い賢明さが必要だった。このような伝道の姿は、一言でいえば抵抗の伝道と言えるだろう。それらのキリスト者たちが何のこの世的後ろ楯ももたないで、ひたすらキリストの故に世界に出ていった。そこにハッキリと示されるものがある。それは、キリストを宣べ伝えるとき、自己過信した英雄気取り(ヒロイズム)でもなく、保身に汲々とする臆病でもなく、どのようなときにも、ただ神への真実の恐れと信頼を最後の拠り所として、生きようとするキリスト者の姿ではないだろうか。

<信頼に支えられて>

 伝道の働きに携わる中で私が死を身近に感じた体験は二度あった。かつて北海道で農村教会の礼拝奉仕に向かうべく真冬の雪深い峠道を自動車で越えた。ところがハンドルを轍に取られて車が制御不能に陥り、降り積もった雪の壁に激突した事があった。幸いにもその激突で車は止まった。次の夏、同じ峠道を通って私は凍りつく思いになった。私を押し返した雪の壁の向こうは数十メートルの峡谷だったのである。私は辛うじて谷底への転落を逃れていたのである。第二は戸手教会での事だった。ある日、十人余りの屈強な男たちに取り囲まれる羽目に陥った。自分の土地を広げようと地境を浸食した地域のボスに抗議した私への反撃だった。囲まれて口論していた間、半殺し、否、殺されるかもと膝が震えていた。後から自分の臆病が恥ずかしくなった体験だった。いずれも、マタイの伝える事態とは比べようもない。彼の時代には、社会全体がキリスト者に無理解で権力者の迫害があった。その中でキリスト者たちは死にも直面した。余りにも違うとはいえ、私もまた身に沁みて分かったことがある。ただ神への恐れと信頼の他には、私たちは勇気の源を持っていないということである。この確信を胸に、虚勢でも卑下でもなく、決断もしぶとさも手放さず、自分なりにイエス・キリストを証し、主に倣って働き続けよう。

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