2004年10月17日 「聖なる者に、一つに、共に」

ヨハネ福音書17・13〜26/エレミヤ書29・1、4〜14

←一覧へ戻る

真理によって、彼らを聖なる者としてください。(ヨハネ17:17)
すべての人を一つにしてください。 (〃17:21)
私のいる所に共におらせてください。 (〃17:24)

<キリスト者たちの祈り>

 ヨハネ福音書は、その一七章全体を十字架事件を目前にした主イエスの地上の生涯最後の祈りとしている。その中でも、「しかし、今、わたしはみもとに参ります」(一三)と主イエスが告白することで、一三節以下は主が自らの死後を想定して弟子たちのために捧げた祈りとなっている。しかし、実際にはこの祈りは主イエスの生前の祈りではない。主イエスの死の数十年後にこの福音書の編集者ヨハネ、あるいは彼の教会のキリスト者たちが捧げていた共同体の祈りだったと考えられる。この点を踏まえるならば、私たちは、先ず次のことに注目しておく必要があるだろう。それは、ヨハネ福音書が編集された紀元一世紀末の時代、キリスト者たちがこの祈りを捧げた背景とは、いったいどのようなものだったのかということである。

<キリスト告白の継承のために>

 

 当時のヨハネ教会はその内外に難問を抱えていた。先ず外部からはユダヤ教の圧迫が強まり、ついにユダヤ教会堂からのキリスト教徒追放が宣言された。その結果、当時、少数者の共同体だったキリスト者たちは孤立を感じ動揺した。その危機感をさらに強めた大きな問題がヨハネ教会の内部にあった。それはキリスト者の世代交代に伴う問題だった。時代は主イエスの死後すでに半世紀以上を経ていた。生前の主イエスを直接に知る世代はほぼ世を去った。さらにその世代から主イエスについてのリアルな証言を聴くことができた第二世代も限られてきた。信仰を受け継ぐキリスト者の大半は、もはや主イエスを間接的にしか知らない世代だったのである。教会への批判の中には、その点を突く声もあったと思われる。いったい、イエスを見たことも、その声を聴いたこともない者たちが、どうしてイエスを知っていると言い、知りもしないその人物を主なるキリストだなどと証言できるのか。このような批判に答えるのは容易ではなかっただろう。しかし、教会はその問題に向き合わなければならなかった。キリスト者たちは、教会員の世代交代が進む中で、主イエスへのキリスト告白をどのようにして継承するかという問題に取り組んだいったのである。

<主イエスの言行に導かれて>

 一三節以下の祈りの背後にこのような信仰継承の願いがあったことを認めるとき、それに向き合ったヨハネ教会の人々の思いが私たちに迫ってくるのではないだろうか。これらの人々の祈りには、幾つかの切実な願いを認めることができる。第一は、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」(一七)という願いである。「真理」とは、すぐに続けて「あなたのみ言葉は真理です」と説明されている。その「み言葉」とは、主イエスの振る舞いと教えに他ならない。さらに、「聖なる者」とは、神によって用いられるために整えられた人という意味である。つまり、この祈りが願っているのは、主イエスの示した生き方と教えによって、キリスト者を神に用いられる者にしていただきたいということである。言い換えれば、ヨハネ教会の人々は、先ず、主イエスに倣って生きること、主への服従から、信仰を受け継ぐ人としてのキリスト者が生まれると信じたのである。

<世代を越えて一つに>

 

願いの第二は、「すべての人を一つにしてください」(二一)との祈りに現れている。この「すべての人」とは誰か。先立つ二○節は、「彼らだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々」と語る。文字通りの意味は、主イエスの直弟子たちだけでなく、弟子たちの証言によって主イエスを信じる人々ということだ。しかし実際には、ヨハネ教会の先の世代と、その証言によって主イエスをキリストと告白する次の世代のことであろう。つまり「すべての人」とは、先の世代も後に続く世代も、全ての世代のキリスト者、という意味である。教会に集う各世代の誰もがすべて一つになること、これがヨハネ教会の切実な願いだったのである。それでは何において一つになるのか。第一の願いが答えている。主イエスに従うことにおいて、教会のあらゆる世代は一つになるのである。キリスト者とは老いも若きも自由を与えられた人の集いである。しかし、それらの自由なる人は一点において、誰もが世代を越えて結ばれている。主イエスに従うことそれである。

<主イエスと共に>

ヨハネは一七節に至って、「わたし(=主イエス)のいる所に、共におらせてください」と祈る。ここに第三の願いがある。端的に主イエスのもとに集い、主イエと共にありたいと願っている。キリスト教会の信仰の継承とは、つまるところ主イエスのもとに身をおき続けるというその姿勢に懸かっているのではないだろうか。このヨハネ教会の姿勢は、私たちの溝の口教会にとっても変わらない。私たちもまたヨハネ教会と共に信仰継承の課題に向き合っている。私たちのだれ一人、主イエスを肉眼で見知ってはいない。しかし、私たちはこの方は復活させられ、いまも生きておられ、私たちを導いておられると証言してきた。その証言の真実さはどのように生まれ育まれるのか。主イエスの振る舞いと教えを心に刻み、日毎の生活の中にそれに従うときである。その営みの中で私たちは一つにされる。その一切は主イエスと共にあり続けるという覚悟から始まる。その姿勢を変えてはならない。

←一覧へ戻る