2004年10月10日 「いのちをあたえる愛

ヨハネ福音書11・1〜27/ダニエル書12・1〜4

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「もう一度、ユダヤに行こう。」 (ヨハネ11:7)
「わたしは彼を起こしに行く。」 (〃11:12)
「さあ、彼のところへ行こう。」 (〃11:15)

■子どもたちに■

<知らせが届いて>

 イエス様が弟子たちと色々な町や村を訪ねて、神様の愛を伝えていた時のことです。イエス様は、病気や貧しさで苦しむ人々に、神様は君たちこそ愛しておられる!と言って、みんなに希望を与えました。ところが、そのイエス様の働きを嫌がる人々もいました。エルサレムの偉い人たちです。みんながイエス様の教える神様を信じるようになると困るのです。自分たちの行いが、実は神様の教えに背いていると分かってしまうからです。そこでとうとう、イエス様を殺そうと決めました。実際、イエス様は、その人たちから石を投げつけられて殺されそうになりました。あまりに危険なので、イエス様は弟子たちと一緒に安全な所に逃れました。しかし、そこに人が来て言いました。「たいへんです。弟子のラザロが死にました。みんなイエス様に会いたがっています。」

<ユダヤにもどろう>

 この悲しい知らせを聞くとイエス様は言いました。「もう一度、ユダヤに行こう。」そこにはラザロの家があり、その家族のマルタやマリアもいます。みんなイエス様を待っています。でも、イエス様のいのちを狙う人々もいます。弟子たちは、戻らないようにイエス様を止めました。するとイエス様は言いました。「わたしはラザロを起こしに行く。」どうしてもラザロを助けると言うのです。そんなことをしたら大変。ラザロを助け、その家族を慰められても、イエス様は殺されてしまう。弟子たちは、もう一度イエス様を止めました。するとイエス様はこう言いました。「さあ、ラザロのところに行こう。」とても強い気持ちが伝わってきました。イエス様はラザロやマルタやマリアを助けるためには、自分のいのちを失ってもいいと思っていたのです。

<いのちを与える愛>

 弟子たちはイエス様の強い気持ちに気がつきました。もうどんなに止めてもイエス様はきっとラザロたちを助けに行かれる。ユダヤに戻るのはふるえるほど怖いけど、それでもイエス様と一緒に行こう。弟子たちはそう思いました。イエス様の心にある強い気持ちは、イエス様の強い強い愛なのだと気づいたのです。そのイエス様のいのちを与える強い愛は、実はわたしたち一人ひとりにも注がれているのです。

■大人たちに■

<根本的なテーマ>

 ヨハネ福音書はエルサレム神殿での「宮清め」を主イエスの宣教活動の始めに伝える。つまり、主イエスはその公的活動の始めから、宗教権力者たちを毅然と批判していたことになる。そうであれば、主イエスの宣教の旅は、エルサレムの権力者たちの追求を逃れながらの死と隣り合わせの旅だったと見ていい。実際、ラザロ物語はユダヤに戻ることを極度に恐れている弟子たちを描く。その恐れはいのちを奪われるという恐怖だった。その生死を問われる緊張の旅に、主イエスもまた行き詰まりや葛藤を覚えたとしても不思議ではない。そのような主イエスの苦闘に思い至れば、ラザロの蘇生物語の前段としてのみ見られがちな一一章一節〜一六節は、今までとは違った意味を示し始める。とくに直前の一○章四○節を踏まえて、その真相が現れてくる。「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」。これは単なる滞在記録ではない。主イエスの心を伝えているのである。主イエスは、ヨハネから洗礼を受けた自分の原点に戻っているのだ。それは、自らの原点に立って、初心を確かめたと言ってもいい。その主イエスの初心こそ、神の愛を、そして神の愛への信頼を、自らの全てもって人々の間に示すことだった。その主イエスにラザロとその肉親のニュースがもたらされた。死の脅かしを受けながら、主イエスは死にも打ち勝つ力を示さねばならない。ここにラザロ物語の根本的なテーマが露になる。それはいのちをも与える主イエスの愛である。

<蘇生を越える奇跡>

 ラザロ物語の彼の死は端的に仮死状態だったであろう。主イエスは彼を仮死状態から蘇生させたのである。この蘇生も一つの奇跡かも知れない。「超能力」を誇る教祖ならば、ぜひ欲しいと思う能力だろう。しかし、主イエスが、超能力を見せて自らの神聖さを信じさせようとしたとは考えられない。彼の人格と精神の深さはその類の矮小さと無縁である。むしろ、注目すべきはラザロの死とその肉親たちの悲しみを知った主イエスの応答の姿ではないか。彼がどうすることを望んだのかは弟子たちとの会話から分かる。主イエスは、ラザロ、マルタ、マリアと共にあることを望んだ。それが彼自身の死を予測させることを知りながら、それを望んだ。主イエスは、自分のいのちを第一にすることも、発足間もない団体を温存することも忘れているかのようだ。ヨハネは主イエスの姿勢を支えたものを語っている。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(五)。この愛を生きることは主イエスの初心でもあった。こうして主イエスは、もはやためらうことなく十字架の死が待ち受けるユダヤに向かう。ラザロ物語の真の奇跡とは、いのちを与え尽くすこの主イエスの愛そのものではないだろうか。私たちを生かしてきたのも、いま生かしているのも、そして残された時を生かすのも、変わらないこの愛なのである。

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