2004年10月3日 「越え行く神

ローマの信徒への手紙11・33〜36/箴言3・13〜20

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ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。  (ローマ11:33)
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ローマ11:36)

<究めがたい神>

フランス・ブルターニュの漁師の祈りと言われる次のような祈りがある。

「愛する神さま、わたしを守ってください

 海はあんなに広く

 わたしの船は、こんなにも小さいのですから。」

大海原で漕ぎ悩む舟人の姿が想像できる。ブルターニュの漁師は、人間の手に余る広大な海の驚異に思わず神の助けを祈ったのだろう。しかし同時にその果てしない海は、生命を養う恵みの宝庫でもある。驚異と恵み、いずれの場合にも、人間の小ささが自覚され、海の広大さを通じて神の無限が強く意識されている祈りではないだろうか。この祈りは、その単純さによって神と私たちの関係をみごとに言い表してくれる。主イエスの示した神は、その御業の広さ深さによって、私たち人間にとって、いつも究めがたく、また私たちの思いを遙に越えておられる。

<教会の和解を願って>

 パウロの言葉は、私たちの思いを越える神、主イエス・キリストの神を、彼の時代のローマ教会の信徒たちに向かって語っている。パウロがこの書簡を書き送ったのは、紀元五五年から五七年頃のことである。当時、ローマ教会には大きな外の、いわゆる異邦人キリスト者との間での軋轢だった(14:1〜15:13)。ローマのキリスト教は、そこに既に移住していたユダヤ人たちを中心に始まったといわれる。ところが、時の皇帝クラウディウスは治安対策の一貫としてローマ市からユダヤ人を追放したことがある。四九年のことだった。その結果、ローマ教会は異邦人会員たちの手で保たれることになった。数年後、情勢の変化によってユダヤ人会員は再びローマに戻った。しかし、教会のあり方をめぐって、ユダヤ人と異邦人の間には、お互いに自分たちこそ教会をリードする者だという自負のぶつかりあいが起こったのである。この手紙は、その軋轢が高まっている時代に送られている。パウロは、第一章から第一一章に至るまでイエス・キリストの福音は万人の救いと信じる神学を緻密に述べていく。そこには、キリスト者たちの和解を願う熱い思いが込められていたと見ていいだろう。

<だれが神の計画を知っているか>

 第11章33節以下は、そのパウロの神学論の結論である。ところが、この結びは直前までの緻密な論述とはおよそ趣が異なる。それは神学論の最終判断を述べるのには似つかわしくないようにさえ見える。パウロが記すのは、そのまま礼拝で唱えるような神への讃美であり、祈りであった。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。・・すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。パウロが、神の富と知恵と知識こそ驚くべき深さをもつと語るとき、彼は、裁きあうローマ教会の会員たちの知恵と知識、その豊かさを、それは神の前にどれほどなのかと問い返しているのではないだろうか。たしかに、ローマ教会の軋轢は、ユダヤ人、異邦人、双方ともに、自らの信仰理解への自信と誇りをぶつけあうことでもあった。一方は主張する。ユダヤ教的伝統をもつユダヤ人キリスト者こそ神を知っている。他方は反論する。そうではない、神はユダヤ人の過去の信仰など顧みてはおられない。この両者には、自分こそ神の計画を理解しているとの自負だけが共通していたのかも知れない。しかし、パウロは、その両方に対してたたみかける。分かっているというあなたたちの自負はほんとうに正しいのか、だれも神の計画を究め尽くし、私はそれが完全に理解できたとはいえないはずだと。そして、彼はその問いかけを、続く決定的な言葉と共に双方に差し出したのである。

<越え行く神>

その決定的な言葉とは、パウロがユダヤ人だけ、また異邦人のみとも言わず、「すべてのものは、神に・・」と語ったその言葉である。これが彼の神学の結論でもあった。彼は、イエス・キリストの神はまさしく万人の神と告白したのである。この意味でイエス・キリストの神は越え行く神である。神は何を越えられるのか。自分は神を知っているという人間の自惚れを越えられる。越えて全ての人のための救いの完成に進んで行かれる。そして越え行く神への信仰は議論としては語られない。それは驚きと感謝の讃美に、また信頼と謙遜の祈りになる。言い換えれば、誰もが神の前に己を低くして、声を合わせて礼拝することが求められているのだ。その礼拝体験の中で、私たちは自分は神を知っているという自惚れを砕かれて、和解を作りだす者に変えられていく。くれぐれも心に留めたい。イエス・キリストの教会においては、誰であれ究極の知恵をもつと言える人はいない。真の知恵とは神ご自身の中にある。神はその計りがたい知恵によって、私たちの限りある思い込みを越えて進んで行かれる。この越え行く神の前に自らを謙遜のうちに見いだすこと、そこに幾多の時代を越えて世界宣教に導かれてきたキリスト教会、そしてキリスト者の確かな知恵がある。

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