2004年9月26日 「誰も奪えない」

ヨハネ福音書10:22-30/歴代誌下7:11-16

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わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。  (ヨハネ10:27-29)

<奪われる体験の中で>

 ヨハネ一○章二八節〜二九節は、「だれも・・奪うことはできない」という言葉を繰り返す。私たちの心に残る力強い言葉である。しかし、この言葉がヨハネ福音書に記された時代、つまり紀元一世紀末から二世紀初頭の時代のキリスト者たちの社会生活を考えるとき、私たちは、この言葉の意味をあらためて深く考えてみる、と言うより、深く心で感じとってみる必要に気づくのではないか。なぜなら、当時のキリスト者の社会生活は、まさに「奪われる」と表現して必ずしも大げさではなかった体験を抱えていたからである。いったい何がキリスト者から奪われたのか。先ず、ローマ皇帝という偶像を礼拝することを拒否する信仰の自由が奪われていた。また、偶像礼拝をしないことで、それと引換えに保障されたローマ社会での安全な生活を奪われていた。そして時には、信仰を貫くゆえに十字架に付けられて生命そのものを奪われた。私が言おうとしているのは、ユダヤ教から始まってローマ帝国にまで及ぶ、主イエスから始まって以後三世紀余り延々と続くキリスト教徒迫害のことである。迫害を被る。それは、言い換えれば「奪われる」体験ということに他ならなかったのである。

<奪われない体験とは>

 こうして、私たちは、「奪うことはできない」という言葉を聴いたヨハネの時代のキリスト者たちに思いをこらさずにはいられない。これらの人々は、既に「奪われた」り、またこれから「奪われる」ことを覚悟で信仰を生きようとしていた人々なのだ。ところが、その人々にとって、「奪われることはない」の言葉が、文字通り力強い言葉となり、支えの言葉となったことも疑えない。皮肉とも見えるその現実の中で、キリスト者たちはこの言葉をアーメン(真実)と受けとめていったのである。何か圧倒されるような気がしないだろうか。自分自身の人生の歩みを振り返ってみると、私は胸を突かれる思いがする。神の手に自分を与えきった真っ直ぐな信仰をそこに感じないではいられない。このような奪われた人々の信仰に照らすとき、とおりいっぺんの表面的な理解では本当に分からなかった、奪われてなおアーメンと答えうる奪われないものが、その姿を露にしてくるのではないだろうか。

<神の愛は奪われない>

 ほんとうに奪われないもの。一世紀半ば、迫害の中で奪われる体験を生きた人であったパウロは、それについて証言している。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。・・どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ八・三五、三九)。ヨハネは「神の手から」と語り、それをパウロは「神の愛から」と表現する。つまり、キリスト者を守り導く神の手は、その人の心には愛に包まれる体験として感じられると言うのである。さらにその愛は「主イエス・キリストによって示された」と、彼は言う。これは、主イエスとの人格的な出会いの体験の中に神の愛が確信できたという証言である。主イエスに心開く体験を潜ると、そこにだれも奪うことができない絆が紡ぎだされる。それは神の愛という確信である。

<神が結ぶ絆によって>

 私たちにもこの体験と確信があるのではないか。死に臨むような迫害の体験を潜った人もあるだろう。それほどではないが、しかし困難の中を潜ったという人もいるだろう。私自身も、職場を追われれるという社会生活の挫折があり、また困窮に心身ともに傷つき牧師を廃業することを思い詰め、一度はそれを実行したこともある。しかし、そうした体験を通じて気づいたことがある。私たちに対する神の絆は、いつでも、私の方から結んでいるのではなく、神の側から結んでくる絆だということである。困難にぶつかって、どこかに逃亡しようとする私たちの弱さはあたかも遠心力のようである。しかしそれに対して、いつも神の愛という引力がさらに強く引きつけている。もとより、物理学的引力というものを私たちはふだんは意識しない。しかし、それは絶えず働いている。そして、私たちはその力に支えられ生かされている。自然界の引力については、このことを理解しているのに、神の愛という引力をどうして分かろうとしないのだろう。ともあれ、神の愛の体験は、自分が捕らえているのではなく、たとえ、こちらが手を放してしまう時にも、むこうから掴まえていてくれるのだと身に沁みて分かってくる。パウロは、またヨハネは、さらに彼らの時代のキリスト者たちは、神の愛の深い体験者であり確信者であった。彼らのその体験、またその確信の真偽は、私たちにとって、誰かに代わりに確かめてもらえるものではない。それを確かめ得るのは私たち自身の体験を通じてである。人生は誰にとっても、多くのものを奪われ、失っていく道程ともいえる。しかし、その途上で何ものかが奪われてもなお、否、むしろ奪われた時にこそ、奪われることなく与えられ、自分を支え導くのが神の愛だ。その力に私は気づいているだろうか、自らに問うて新たな一週間を踏み出したい。

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