2004年9月19日 「主イエスの声に聴け

ヨハネ福音書10:1−6/エレミヤ書50:4−7

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門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。  (ヨハネ10:3−4)

<主イエスと従う者の姿を語る>

 ヨハネ福音書一○章一節以下の説話のテーマは、冒頭の聖句に集約される。つまり、羊飼いと羊に譬えて語られているのは、主イエスとキリスト者たちの親密な関係である。しかも、単にその関係を説明するのではない。ヨハネは、ある一つのことを暗に証しようとしている。それは、主イエスと彼にに従う者との間に交わされる真実な呼びかけと心からの応答、その生き生きした体験である。主イエスは神からの真実なる導き手としてキリスト者たちの前に現れ、ご自分に従うようにと呼びかける。この主の呼びかけの声を聞いて、キリスト者たちは全幅の信頼と共に従って行くことができる。そのような信仰の体験がこの譬え話の背後にあって、一八節に至るまで喜ばしく語られていく。

<ファリサイ派は理解できなかった>

 ところが、主イエスの言葉は、一度、短い一節で中断される。六節は、「イエスは、この譬えをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」という。しかし、この一節は、欠けていたとしても一八節までのストーリーに支障を来すことなどないようにも見える。それにもかかわらず、ヨハネはこの一節を書き加えた。なぜだろうか。この一節の背後には、主イエスに答えて従う歩みが、一体どのような意味を持っているのか、その深い意味が暗示されているのではないだろうか。ここでは主の譬えの真意を理解できないファリサイ派の人々の姿が印象的だ。その彼らの姿とは、実は先立つ九章が一貫して語ってきた点であったことを思い出してみたい。九章は生まれつき目の不自由だった人が、主イエスの手によって癒された出来事を報告して始まる。ところがその報告は七節までで、後は三四節まで、説話の大半が癒しの出来事の後に起こった神学論議に費やされている。その論議も、長年の辛い病から解放された人を宗教上の罪人だと非難し、遂には排除するという結末になる。ヨハネは、そうした冷酷な議論を繰り広げたのはファリサイ派の人々だと記す。ヨハネが描くファリサイ派の人々には、長年の苦しみから解放された隣人への共感が全く感じられない。彼らは隣人への想像力が欠けているように見える。そして、その頑さの根底には、慈しみの神に対する決定的な無知が示されているといっていいだろう。それゆえに、九章の結末、四一節はファリサイ派の無知に対する主イエスの厳しい批判の言葉で終わるのではないか。このような背景から一○章六節を考えるとき、ファリサイ派の無理解の背後には、慈しみの神に対する無知が隠されていたことがわかるのである。

<裁きと偽善の議論を越えて>

 あらためて羊飼いの譬えに注目したい。ファリサイ派の人々は、主イエスの真実さと彼に従う者の信頼の体験を理解できなかった。その無理解の根底に、ヨハネは、神を慈しみの神として受け入れず、それゆえに隣人への思いやりも失っているファリサイ派の人々の心を見抜いていた。彼らの信仰の神と隣人に対する決定的な見当違いを見抜いていたと言ってもいい。ヨハネは、その頑なファリサイ派の人々を強く意識しながら、良き羊飼いとその声に聴く羊の説話を記したのではないだろうか。それは、九章に示されたファリサイ派の裁きと偽善の宗教を越えていく信仰の生き方を求めたのだともいえるだろう。そして彼は、その道は、傷つき痛んでいる隣人に対して、慈しみの神を信じて関わっていく行動を優先した主イエスに見い出されると確信したに違いない。その主イエスが導くとき、従う者もまた奉仕の愛に生きられる者に変えられていく。その真実な導き手であるゆえに、主イエスは羊に対する真実な羊飼いとして描かれるのである。キリスト者の信仰が、宗教者が陥りやすい偽善と裁きを越えて、神と隣人の前に真実でありえるとすれば、それは主イエスの導く道である。

<主イエスの声に聴け>

 羊飼いイエス・キリストに黙々と従う羊キリスト者の姿。それは百の議論にもまさって一つの愛の実行を生きる姿ではないだろうか。ヨハネは、この道こそ、いのちを顧みず論争に陥る偽善と裁きの宗教から解放されて、生き生きと神の霊に生かされる真の信仰の道と信じたのである。しかし、ヨハネだけではない。現代の一人のキリスト者もこの道を見い出している。その人は、インド・コルカタの町で、良き羊飼いに信頼し、七十数年の生涯を従い続けた忠実な羊だった。その人マザー・テレサは、一人のヒンドゥー教徒の老人の最後を見とり、次のように語る。「愛することをしないで宗教について語る人がいます。・・その人は何もわかっていないのです」。彼女は、そのヒンドゥーの老人が神学的見地から罪人であるか否かなど微塵も論じてはいない。ただひたすら主イエスの名のゆえに、孤独なその人に人生の最後の優しさを差し出している。そして静かに語る。「愛することをしないで宗教について語る人がいます。・・その人は何もわかっていないのです」。わたし自身の心が深く探られる。わたしたちは、キリスト教信仰の真実を知りたいと願っているだろうか。それがほんとうにわかる歩みは、主イエスに従い愛の実行を体をもって担う所から始まって行く。その歩みをこの方は先頭に立って導いてくださる。あなたはわたしの羊・・と呼びかける主イエスの声を聴こう。

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