2004年9月12日 「自由への真理

ヨハネ福音書8:31−36/エレミヤ書28:1−17

←一覧へ戻る


イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」  (ヨハネ8:31−32)

<真理とは>

 聖書の言葉の中には、本来の意味と多分にかけ離れたイメージが染みついてしまったものがある。ヨハネの語る「真理(アレテイア)」という言葉もその一つではないか。この言葉は、しばしば宗教上の特別な修行を積んだ人だけが得られる深遠な悟りといったイメージで見られる。しかし、この言葉は、旧約聖書の流れから見ると、「アーメン(真に)」と同じ語源から出ている。私たちが日々の祈りにおいて神の「真実」に信頼しますと告白する、その「真実」と通じる言葉である。だから、それは何よりも先ず信頼の心で受けとめるべき人格的な真理だといえる。そしてこの人格的な真理とは、主イエスご自身のことに他ならない。八章三二節は、主イエスにおいて人は真理を知り、真理によって自由にされると言う。それは、端的に言い換えられる。人は主イエスを知ることで、主イエスによって自由にされるのである。

<迷いの中にある信仰者に>

 ところで、主イエスを知り、彼によって自由になると言うとき、その自由とはどのようなことなのか。そこには固有の意味があった。三一節は冒頭で、「御自分(=主イエス)を信じたユダヤ人に言われた」という。この言葉がその手がかりを与える。ここでいうユダヤ人は、物語の登場人物となっているが、編集者によってさらにもう一つの意味が込められている。それはこの福音書を生み出したヨハネの教会に参加していたユダヤ人たちである。それらの人々の中には、キリスト教会に連なりながら、なおユダヤ教にもとどまり続けていた人もあった。ところが、紀元九十年代に入ると、ユダヤ教では、戒律を重んじるファリサイ派が指導的立場を確立した。その結果、ナザレのイエスをキリスト(=救い主)と信じるキリスト教徒は、戒律を冒涜する輩と公式に断罪されてユダヤ教会堂から追放された。その結果、ユダヤ人キリスト者の中には動揺をきたして、キリスト教会を離れてユダヤ教に戻ろうとする人たちが現れた。その歴史的背景を考えると、三一節以下の主イエスの言葉は、主の教えとファリサイの教えの間で迷っているヨハネ教会のユダヤ人たちに向かっての言葉でもあることが分かる。言い換えれば、主イエスの言葉は、ファリサイ派的ユダヤ教を強く意識して、他の教えではなく主イエスにある真の自由を生きよと、迷いの中にある信仰者に語りかけているのである。

<独りよがりの自由>

 当時、ファリサイ派的ユダヤ教の考えでは、正しい信仰者は、神の民としてのユダヤ人のプライドを持ち、義人と罪人とを俊別し、自分は他の不信仰な人とは違う義人だという意識を固くすることが大切だった。そこに選ばれた民族として他に秀でた人間の自由を感じるというものであった。しかし、それは、結局、隣人に閉ざされた独りよがりの自由ではなかっただろうか。それでも、そういう自由の意識の方がある人々には魅力的に思えたのかも知れない。キリスト教徒であればそんなわけにはいかなかった。主イエスに倣って異邦人や貧しい人々を同じ人間として兄弟姉妹と呼んでそれまでの自分の優越感を捨てなければならない。そして誰もが主イエスに倣って共に生きようとすれば、実際の教会生活では、様々な違いを認め合い生かし合うための困難や忍耐や努力が欠かせなかった。これに対してユダヤ教にとどまっていれば、隣人とは同胞のユダヤ人、しかも同じ男性だけに心を配ればよい。異邦人や貧しい人や女性を平等の存在として、自分を低くしてまで関わらないで済む。その姿勢が正しい信仰の名によって正当化される。ともあれヨハネの物語では、主イエスの反対者のユダヤ人たちは、結局、主イエスを離れてファリサイの教えにしがみついて終わる(八・五九)。それはヨハネ教会においても起こった人々の脱落を示しているのではないだろうか。かつてこのようにして主イエスの導く自由に心を閉ざした人々があったのだ。彼らにとって自分のための安心とそこで感じる自由だけが自由だったのである。

<愛する自由を>

 しかし、ヨハネの語った閉ざされた人々の姿は、必ずしも二千年余り前の人たちの話に終わらないのではないか。自分だけ、あるいは近しい同類の人々だけに心を配り、様々な隣人への関心は閉ざして、ほんとうの意味で愛する自由として自由を用いることをためらったり鈍らせる人々の姿を、私たちは今日の世界にも見いだす。その姿勢を自らの内にも感じることもある。そうであってはならないと分かっていても、社会の動きや日毎の生活に何も出来ずに流されてしまうこともある。しかし、主イエスが信仰に曖昧になっていた人々にあらためて約束した自由とは、独りよがりの自由から、それに縛られた心と生活を解放する自由だったことを覚えたい。それはパウロの言葉を借りれば、主にあって「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」(ガラテヤ三・二六〜二八)、あらゆる隣人に開かれた生き方に導く自由だった。それは今もわたしたちの時代、社会、人生に不可欠の自由である。このことを繰り返し心にとどめ、主イエスに倣い愛する自由をたとえ僅かでも行動に現していきたい。主イエスは私たちを導き、そのための力を与えてくださる。私たちの小さな服従の志がその恵みの力を受けとめる器になる。

←一覧へ戻る