2004年9月5日 「世の光、命の光

ヨハネ福音書8:12−20/出エジプト記13:17−22

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イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ。」  (ヨハネ8:12)

<解放の光>

 ヨハネ福音書八章一二節以下の説話は、主イエスの時代に行われていたユダヤの祭りが舞台になっている。その祭りとは、当時ユダヤの宗教の中心だったエルサレム神殿の「仮庵祭」である。仮庵とは、文字通り急ごしらえの仮のテントのことで、安住の家がない境遇を象徴するものだった。この祭りの由来は次のような言い伝えだった。ユダヤ人の祖先は、紀元前一三世紀頃にエジプト王国の支配から逃れて難民生活の体験を味わった。「出エジプト」と言われるその難民生活は死と隣あわせの過酷な旅となった。しかし、それにもかかわらず、ユダヤ人の祖先たちは、エジプト王国での奴隷の境遇から、人間的な自由を得るという解放を体験し、その体験こそ主なる神の恵みだったと言い伝えたのである。主イエスの時代にも、仮庵祭の夕方になると、出エジプトした祖先が、夜、砂漠を行くとき神の与えた「火の柱」(脱出した人々を先導した者たちの携えた火壺の火が輝く姿か?)に導かれたという伝承にならい、エルサレム神殿の「婦人の庭」に設置された四つの黄金の燭台に火が灯された。その輝く光は人々を解放に導く掟(=律法)を象徴するのだと考えられていた。主イエスは、このような舞台背景の中で一二節以下の言葉を語ったということになる。

<儀式と戒律ではなく>

 こうして一二節の意味が明らかになってくる。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ。」この言葉は単純な宣言の言葉ではなかった。今日の聖書学者は、ヨハネ福音書に繰り返し用いられるこの定式の言い回し、つまり先ず象徴語句を述べて、それに条件つきの約束が続く言い方は、何か偽物を前提に語っていると言う。そして、偽物ではなく「他ならないこのわたしが本当の〜である」と強調しているのだと言う。一二節に即して言えば、主イエスの言葉は、偽物ともいうべき「光」を意識して、「それは光ではない。他ならないこのわたしが光なのである。命の光なのである。」と言っているのである。それでは何を偽物の光と呼んだのか。先に触れた背景から見て、主イエスが批判した偽物の光とは、エルサレム神殿の儀式主義の宗教であり、さらに律法という掟に固執する戒律主義の宗教だったのではないか。ヨハネの語る主イエスは、人間を解放し、いのちを生かすのは、どんなに荘厳でも儀式に溺れる宗教ではないと見た。また、どんなに完璧でも戒律ばかりに人を縛りつける宗教でもないことを見抜いていたのではないだろうか。

<福音の招きに>

 さらに主イエスが「わたしは世の光」と、人々の間に身をおいて言うとき、そこにもう一つ注目したいことがある。それは、彼の言う「世」とは「この世界」と言った意味の漠然とした言葉ではなかったことだ。彼の言った「世」とは、彼の目の前で彼の言葉を聞いていた人々そのものであった。言い換えれば、いま儀式宗教に魅了され戒律宗教に縛られているその人々だった。ファリサイ派の人々が直ぐに主イエスに反論を加えたのも、そうした状況を裏書きしている。彼らは主なる神と自分たちを結び付ける絆を儀式や戒律に違いないと考えた。決して主イエスのように神との人格の交わりとその慈しみに信頼することだとは考えなかったのである。それ故に主イエスに対して激しく敵対する。しかし、主イエスは敵対する人々を含めてそこにいた全ての人々に向かって、彼自身が神と人々を結びつける光(導き)となると言う。主イエスは、彼に敵対する人々が決して自由ではないことを理解していたのではないか。実際、当時の社会の行き詰まりが日増しに強まる中、ユダヤの宗教指導者たちは、儀式に血道をあげることで、益々、人々の目を現実から逸らして一時の陶酔で麻痺させる偽りにはまり込んでいた。ファリサイ派のような信仰熱心を自称する人々は、戒律で縛りつければ縛りつける程、人々を「義人と罪人」の単純な二元論に陥れて差別意識を膨らませて引き裂いた。主イエスの批判した儀式主義と戒律主義の宗教は、単に歪んだ宗教というのではない。それは、人々の人間性を窒息させて、現実を深く見据えて生き抜く知恵を奪い、さらに助け合って生きる友情を摘み取ったのである。その結果として、人々は神の賜物を生かし合って生きる人生の幸いも見失っていたのではないか。それは、出エジプトに示された神の解放の恵みとは、全く正反対のものだといわねばならない。それゆえ、主イエスは、破局に向かう人々に人間を解放する真の神に立ち返るように語り続けたのである。不本意な憎しみと殺意を甘んじて受け続けながら。この主イエスの呼びかけを福音の招きと呼ぶ。

<世の光、命の光>

 主イエスのこの福音の招きは今日の私たちにも差し出されている。この方の招きに照らされて自らを振り返って考えて見たい。今、私は自分自身やこの時代の行き詰まりを一時の陶酔で麻痺させる何かで間に合わせていないだろうか。今、私は自分のことも他人のことも、戒律で縛りあげるように裁いては、結局、お互いの心を繋ぎ合うことが出来ずに孤独に陥っていないだろうか。個人にせよ社会にせよ、主イエスの福音とは、それらの行き詰まりから解放される生き方への招きに他ならない。その意味で主イエスは世の光である。否、こう言い直そう。福音の招きに答えて信仰の一歩を踏み出そうとする人にとって、主イエス・キリストは、必ずその人生を照らすいのちの光となってくださる。

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