2004年8月29日 「弱さを誇る

勝沼教会牧師 竹島 敏

コリントの信徒への手紙2 12・1〜10/ヨブ記3・11〜19

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すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
(コリント2 12:9)

 今朝の聖書の箇所から私たちは、強さを誇り、競い合う、そのような時代の状況の中で、あえてパウロが「弱さを誇ろう」と語りかけていることを知る。パウロは「自分自身については弱さ以外に誇るつもりはない」とキリストの啓示に自らをゆだね、キリストに仕え、従う生き方を貫こうとしたのであった。

<パウロに与えられたキリストの啓示・力は弱さの中で発揮される>

ではこのパウロに与えられたキリストの啓示、とはいったい何だったのだろうか・・、それは12章7節以降に記されている。12章7節後半を見ると「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」とある。パウロに与えられた、この肉体のとげ、とは何だったのか、様々な説が論じられてきた。偏頭痛だったのではないか、という説や、あるいは眼の病気だったのではないか、という説、また何かのいわゆる言語障碍があったのではないか、という説や、また、心の病だったのではないか、という説を唱える神学者もいた。いずれにしても、当時は精神的な病も肉体的な病もサタンによって引き起こされるとしばしば信じられており、パウロはこのサタンからの使いを離れ去らせてくださるように三度、主に願った、とある。この三度、という数字はここでは何度も繰り返された、という意味に用いられている。すなわちパウロは何度も何度も、この身のとげを取り除いて下さいと神に祈り、願ったのだ。しかしこの切実な叫びのような祈りの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という御声だった。この、弱さ、という言葉のもともとの意味には無力、とかまた、病気といった意味も含まれており、だとすれば意味的には「わたしの恵みはあなたに十分である。力は無力の中でこそ発揮されるのだ」また「力は病の中でこそ十分に発揮されるのだと読むことも可能だと考えられる。完治する見込みのない病の中で病を受け入れ、そのような無力さの中にこそキリストの力が充満されることを信じて、そこに賭けて生きる決断をパウロはしたのだ。それが9節後半の「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」という告白・呼びかけの意味なのだ。

<御言葉から問われている私たちの在り方>

私たちが生かされている現代もまた、強さを誇ることはあっても、弱さを誇ることなどとうてい思いつかないような時代である。そのような時代の状況において、今朝の9節の御言葉は、私たちの時代「あなたはまたしても、強さを誇ろうとしてはいないか」と、私自身、問われているかのようである。一人一人の命の重さが見失われ、時代の価値観によって弱いと見なされた命は簡単に踏みにじられてしまうようなこの時代の状況の中で、しかし、この朝、もう一度このキリストの言葉を信じて、この言葉に賭けて歩むように、・・、と私たちは促されている。このキリストの言葉を信じ、この言葉に賭けるところにこそ、弱さや痛みを素直に告白しあえる交わりがさらに深まり、強がったり、隠したり、虐げたりすることからも解放されて、すべての人の個性が生き生きと喜んで連帯できる神の国へと向かう働きが生み出されていくのではないだろうか。私たち一人一人の「弱さ」を個性や賜物として豊かに用いてくださる主の力を信じて、ここから新しい一週間の旅路へと旅立っていきたいと思う。

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