2004年8月22日 「従う道において

ヨハネ福音書7:40-52/ヨブ記28:12-28

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イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕 らえようと思う者もいたが、手をかける者はいなかった。(ヨハネ7:43-44)

<ヨハネは対立の経験を語った>

 ヨハネ福音書七章四○節〜五二節は、イエスとは信仰の教えに照らして何者なのかという論争が闘わされた物語である。四三節中にある「対立」という言葉は「分裂」をも意味する言葉であり、ヨハネはその論争の激しさを私たち読者に印象づけている。このような対立や分裂が、ヨハネの伝えるそのままに主イエスを前になされたかどうかは定かではない。むしろ、この物語から注目すべきは、主イエスをめぐる対立や分裂を生むような論争は、実にヨハネの教会自身の身に迫った経験を反映しているのだということである。この物語の背後に論争に苦しんだ教会の姿を見抜いておくことが、大切なのではないだろうか。

<主イエスという方をめぐって>

 ヨハネ教会に限らず紀元一世紀末のキリスト教会は、当時のユダヤ教との論争を避けられなかった。何しろキリスト教徒の信仰の中心である主イエスへの告白、即ち主イエスこそ神のキリスト(救い主)なのだという告白は、ユダヤ教徒からすれば、信仰の逸脱としか見なされなかったからだ。ユダヤ教にとって、イエスの生と死は全く不愉快な躓きに見えた。イエスとは、生きていた時には、ユダヤ教によって罪深いと蔑まれた貧しい人々と共に生きたいかがわしい人物。また、その死においては汚れた異邦人兵士の手にかかって権力への反逆者として十字架刑に処された呪われた人物だった。イエスはユダヤ教からすれば神から遠い。まして彼をキリストと崇めるのは忌まわしい冒涜でしかない、ということになる。キリスト教徒はそれとは全く正反対に見ていたのである。キリスト教徒は、主イエスが人間扱いされなかった貧しい人々の間に生きた事実によって、この方の中にあらゆる人を分け隔てなく慈しむ神を見たのである。キリスト教徒は、主イエスが十字架の死をあえて避けなかった事実によって、最善をなし給もう神への信頼を学んだのである。さらに彼の十字架の死は、この方の復活への信仰を用意し、この方の赦しを受け入れて御後に従う生き方こそ真の神に出会う道だと信じる人生を示されたと考えた。このようなキリスト教徒とユダヤ教徒とが、同じユダヤ教的伝統の名のもとに結びついていることは、この上なく難しいことだった。ヨハネ福音書の生まれた時代とは、両者がはっきりと袂を別っていった時代だったが、その中心は主イエスという方への信仰の態度を明らかにする問題だったのである。

<論争がもたらしたもの>

 このような背景が明らかになると、ヨハネの語った四○節以下の様々な言葉が、主イエスという方への様々な解釈を反映していることが想像できるのではないだろうか。もっともそれらが実際にヨハネ教会の内外で闘わされた論争とどのように結びついているかを詳らかにすることは、中々出来ないかも知れない。ただ、ある人は主イエスをキリストだと告白し、またある人は、主イエスは預言者だと考え、ある人はそのどちらでもなく聖なる人物とは言えないと考えたのではないだろうか。さらには、ニコデモのように判断をためらう人もあったかも知れない。いずれにしても、ヨハネ教会は、その内外に主イエスをどのように理解するかの対立的論争に晒され、分裂の危機に苦しんだことは確かであろう。ヨハネの物語では、この論争は、主イエスに対する理解が深まらなかった様子を伝えて終わっている。理解が深まらなかったというよりも、ますます誤解が深まったことを伝えて終わっている。そのこともまた、ヨハネ教会の味わった現実を反映していると見ていいだろう。言葉による解釈を投げつけ合う対決的な論争の道は、つまるところ、分裂に終わる道だったのではないだろうか。

<従う道において>

 「イエス・キリストは、論争の種とすべき方ではない。イエスは、知り、愛し、喜んで体験すべき方なのである。」このヨハネの物語を注解したある神学者の指摘である。心を突かれる指摘ではないか。主イエスとはどのような方なのか。残念なことにヨハネの物語の論争は、この福音書を越えて、さらに続く時代にも繰り返された。しかもキリスト教徒自身の共同体の中で激しく繰り返されてきた。そして、私たちが知るように様々なところで教会・教派の対立や分裂の事実が残っている。かつてカトリック・キリスト教が東アジアに到来した時代、様々な修道会が競い合ったという。その姿を見た中国の人が言葉を残している。「これらの人々は自分たちこそ正しくイエス・キリストを理解しており、他の連中は違うと言って激しく非難し合い論争している。偉大な教えを説く人々と言うには、どこか違和感がある。」考えさせられる言葉ではないか。イエス・キリストは論争で分かる方ではない。イエスは、知り、愛し、喜んで体験すべき方である。否、「体験」という言葉を「服従」と言い換えて、改めて心に刻みたい。イエスは、知り、愛し、喜んで服従すべき方である。決して論争が無意味なのではない。しかし、真の理解をもたらすものは、論争ではないことを弁えたいのである。主イエスへの理解をもたらすものは、実に主イエスへの服従に他ならない。ヨハネが伝える他の言葉に耳を傾けよう。「イエスは『来なさい。そうすれば分かる』と言われた」(ヨハネ一・三九)。ただ従う道において私たちは主イエスをさらに深く知り、愛するであろう。

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