2004年8月8日 「主イエスに与る信仰

ヨハネ福音書6:41-59/箴言9:1-11

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わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人の内にいる。(ヨハネ6:56)

<主イエスの肉と血とを糧に>

 ヨハネ6章41節〜59節は、主イエスの口に託してヨハネ教会のキリスト者たちの信仰の思いを強く押し出している。もっとも、時代も文化も異なる私たちには、表現の言葉は謎めいていて、必ずしも分かり易くはない。とくに後半56節を中心とした主イエスの肉と血とに与るという言い回しは、馴染みにくい。しかし、キリスト教会の礼拝を実際に体験している人は、その言葉が何を表現しているか、たやすく気づくだろう。それは聖餐式のパンと杯とに与ることである。そこで与えられるパンと杯とは、ヨハネ福音書風に言えば、主イエスの肉と血とに与るということになる。この点に気づけば56節の語るメッセージはよく分かる。それは、聖餐に与ることを通して、ヨハネ教会のキリスト者たちが、どんなに深く主イエスと心の絆を感じていたかを語っているのである。私たちは、その聖餐における信仰の体験について深く注目したい。この主イエスに与る信仰の体験こそ、実は、41節以下の言葉全てを支えている源なのではないだろうか。

<蔑みに抗して>

 ヨハネ教会のキリスト者たちの信仰の体験を理解するには、これらの人々が生きた社会と宗教の背景を考えるといい。紀元1世紀末、ユダヤ教の強いパレスチナ地方にあったこの教会は、ユダヤ教勢力からの強い圧迫を絶えず受けていた。とくに出身や職業で下層の人々が多かったキリスト教徒は、社会の主流をなすユダヤ教が崇めたモーセの権威を知らない愚かな連中と見なされていた。ヨハネ教会の人々はそうしたユダヤ教への抵抗の姿勢を抱いていた。たとえば、6章46節はその抵抗の思いをよく示している。キリスト教徒は「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と告白している。これはヨハネ教会の礼拝の中で繰り返された告白の言葉だったと思われる。しかし、ユダヤ教の立場からすれば、これは捨ておけない言葉だったはずだ。出エジプト記16章8節は、モーセがホレブ山で神の現れに接したと伝える。聖なる神を見れば人は死ぬと信じられていた古代中東の宗教の伝統の中で、モーセは死ぬことなく神を見た権威ある人なのである。こうしたモーセの権威を強調し、またその権威と比較すれば、卑しい身分のガリラヤ人イエスに従うキリスト教徒など、汚れた者として蔑む対象だっただろう。そういうユダヤ教の蔑みに抵抗しつつ、主イエスこそただ独り神を見た方と信じて、あえて46節が告白されている。これは抵抗の言葉だったのである。

<聖餐によって>

こうしたヨハネ教会の人々の抵抗を支えた確信はどこから生まれたのか。それは聖餐式での信仰体験だったのではないか。しかし、それらの体験を独りよがりの熱狂や幻想、言わば「麻酔」的な宗教体験と見なしてはならない。その体験の内容をパウロの言葉が見事に語っている。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ギリシア人もユダヤ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいてひとつだからです。」(ガラテヤ3・27〜28)パウロは出自や貧富の差に縛られない平等な人間としての出会いと一致の体験を語っている。これは洗礼に限られない。かえって聖餐式において強く感じられたに違いない。それは、主イエスが罪人や貧しい人々と分かち合った食事の喜びに満ちた体験を、形を換えて継承しているからだ。これは差別的な律法主義を強めていたユダヤ教から見れば、厭うべきスキャンダルだった。しかし、キリスト者たちは、自分たちに与えられたこの人間同士の対等な出会いと一致の喜びを決して手放さなかった。これこそが人々の確信に満ちた抵抗の姿勢の源だった。これに支えられて、ユダヤ教の教えに対してイエス・キリストの教えこそ真理だというヨハネ教会の確信が主張された。

<信仰の喜びを生きる>

 ユダヤ教の圧力に対して権威も伝統も持たなかったキリスト教会は、信仰の生きた喜びの体験に支えられていた。聖餐の信仰体験はその中心だった。繰り返し言うが、それは決してマインド・コントロールに類する体験ではない。1世紀末、地中海世界の片隅に真実な人間的生き方を創造し始めた社会的奇跡と言った方がいい。この体験の下、キリスト者は56節の告白の通りに感じたに違いない。聖餐は、主イエスの別け隔てなくいのちを与え尽くした愛に与る体験だった。その体験を分かち合うことで、キリスト者たちは人間として生かされている自分と隣人を見いだす喜びを味わった。そこには、時代の権力と宗教の権威主義が色あせて、神の子イエスと共にある解放と一致の喜びがあった。このことは、とくに貧しい人々について言われた。しかし、この真理は貧しくない人々にも変わらない。豊かな人々は、主イエスに与る信仰の体験を通じて、謙遜な自己発見に導かれる。独り占めの貪欲と隣人に対する奢りや鈍さを、主イエスの犠牲の愛に触れて、あらためて自覚することになる。このような信仰の体験は、今日の私たちにも問いかけているのではないか。私は主イエスに与って何を体験しているのだろうか。そこに人間としての謙遜な出会いと一致の喜びが備えられていることを感じとりたい。また、イエス・キリストへの信仰を生きることは、その自由と解放の喜びを体験することだということを心に刻みたい。

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