2004年8月1日 「もう一つの平和

マタイ福音書5:3-5/イザヤ書25:1-9

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心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
(マタイ5:3-5)

<もう一つの平和>

 主イエスの語った平和の教えを注目するならば、なぜ、ここでは九節ではないのかと思う人があるかも知れない。たしかに直接に平和を語るのは九節だ。それは平和の実現に働く人を励ます。主の平和の戒めに聴く人は、先ずこの言葉に注目してきた。しかし、そもそも主イエスの言う平和とは何か。主イエスの語る平和は、ここ「八福の教え」(三〜一○節)全体の中で、九節に至って語られた点こそ注目したい。私たち人間は、九節の語る平和のために働く人だけが平和に関わっているのではない。平和を切に待ちながら、しかし、何もできずに傷んでいる人々もいる。三節以下が語る人々だ。そういう人にとっての平和という所から、改めて平和の意味を考えて見る必要があるのではないか。

<少女パラコの話し>

 私は一人の少女の実話を思い出している。彼女の名はパラコという。二○○二年一月、アフガニスタンのカラククという小さな村の結婚式の披露宴でのことだ。お祝い事に空に向かって銃を撃つパシュトゥン人の伝統行事をタリバンの攻撃と誤認した米軍は、七発の二千ポンド爆弾で爆撃を加え、ほとんどが女性と子どもの三○人を殺し、四○人以上に負傷させた。結婚披露宴の攻撃で家族の中でたった一人生き残った、六才になる少女がパラコだった。報道写真では、彼女は病院のベッドに包帯を巻かれたまま横たわっていたが、まだきらきら輝く飾りをつけたパーティー・ドレスのままだったという。ある人は、パラコに思いを寄せて、「孤児になり、トラウマ(心的外傷)で悩まされ、米軍の爆弾が空から自分の家の上に落ちてくる時の死の恐怖に脅えていた。パラコにとっては、それらが一度に全部結婚披露宴で起こったのである」と言っている。もっとも、パラコの悲劇も米国の戦争指導者たちにとっては、9・11の犠牲に対する「正統な報復」の上でのちょっとしたミス以上ではないのだろう。私たちは、真実を願う限り、この少女のための平和を求めずにはいられない。

<幸いな人々>

 主イエスは、「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」(三、四、五)、これらの人々こそ名誉を取り戻し、尊敬をもって迎えられると告げる。「幸い」という言葉はそういう意味である。原文は、「何と尊敬に値することだろうか!」と言うとても強い表現だ。しかも、これらの人々は、決して架空の人々ではない。当時の社会で、支配者の圧政や横暴の下で、貧しくされ、心を病んでいたり、涙を流して悲しんでいたり、土地や家財を奪われて苦しんでいたり、正義の回復を求めて渇いていたり、しかし、抵抗さえままならない無力な状態に縛られていたりする。まさに文字通り、人として生きる尊厳を奪われ、軽んじられた人々だった。しかし、そのような人々こそ、神は人間として名誉を回復され尊敬される者となさるのだ、と主イエスは強く訴える。

<歴史の中の幸い>

 そして、注目したいのは、主イエスが、この尊厳回復の幸いを時間的変化のもとに語ったことだ。三節〜五節までは現在形で語り、それ以降は未来形で語っている。主イエスは、神の幸いが、空間的変化ではなく、時間的変化の中で、つまりこの歴史の中で抑圧に苦しむ人にもたらされると言う。決して来世の話しではない。この歴史の中で尊厳を奪われて苦しむ人に、この歴史の中でその人の尊厳を回復することが、神のみ心だと告げたのだ。そして、主イエスは、続く六節以下の幸いを未来に事実となることとして、言い換えれば、遂には、この世界にもたらされることとして語る。それは何を意味するのか。神の幸いは、人間の造る世界の罪を覆して、歴史の中に事実となって現れ、人々を救い出していくということだ。だから、六節以下、正義を求める人、隣人愛を実践する人、神の意思を真っ直ぐに尋ねる人、そして、平和のために働く人、それらイエス・キリストに従って歩む人々は、その行動を通じて、まさに神の幸いを尊厳を奪われた人々にもたらすみ業に参加している。その故に重ねて幸いと言われるのである。

<本物の平和を求めて>

 もっとも、私たちは、主イエスが幸いを告げた貧しい人々とも、少女パラコとも、安易に同一視できない自分を謙虚に認めなければならない。その上で、あえて言いたい。私たちはパラコのような隣人にとっての平和でもある平和を求めるのでなければ、本物の平和を求めていることにはならないということだ。これは平和の課題を恐ろしく難しく感じさせるかも知れない。しかし、困難であることは、私たちに課題を放棄してもよいと言う口実を与えるものではない。パラコの姿が示され、主イエスは、神の幸いがそのような人に注がれると語った。このことを受けとめる時、九節の語る平和が片隅の人々のための平和なのだと分かる。この平和の意味を理解した人は、決して「正統な報復」などの偽りに惑わされない。人間であることを否定された無数の隣人が世界に満ちあふれる今日、私たちは主イエスの告げる幸いを深く心に刻んで、傷つけられた隣人に心を向けたい。そこから神の幸いとしての確かな平和への営みが創造されていくに違いない。

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