2004年7月25日 「恐れることはない」

ヨハネ福音書6:16-21/イザヤ書43:1-13

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夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、船に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした(ヨハネ6:16-17a)
彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:19c-20)

<ヨハネの示すもの>

 ヨハネの物語は冒頭一六節のように始まる。「(弟子たちは)湖畔へ下りて行った、・・船に乗り、・・行こうとした」と言い、彼らが自らが進んで行動する姿を伝える。これはきわだったヨハネの特色である。それは他の福音書と比べて見るとよく分かる。例えば、同じ物語の始まりをマルコ福音書は、「それから、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、・・・」(六・四五)と伝える。マルコは弟子たちが主イエスに「強いられて」船に乗ったという。弟子たちの進んで行動する姿を強調しているのがヨハネである。いったい、ヨハネは、そこに何を示そうとしているのであろうか。

<キリスト者の歩み>

 さらにマルコと比較して見たい。マルコの弟子たちは自ら目的地を目指したわけではない。マルコに倣ったマタイでは目的地の地名さえ消えてただ「向こう岸」(マタイ一四・二二)となり、さらにあいまいになる。これに対して、ヨハネの伝える弟子たちはカファルナウムという目的地がはっきりしている。この目的に向かって自ら行動する弟子たちの姿に、ヨハネ福音書を生んだ教会のキリスト者たちは、自分たちの姿を重ねていたのではないだろうか。ヨハネ教会の信徒たちは、ユダヤ教からの迫害に直面し、自立した新しい信仰と生活を模索しなければならなかった。そういう人々にとって、キリスト者であるとは、人生について、その志、日毎の生活、教会づくりなど、繰り返し主イエスに問い、聴き、導きを求めつつ生きることを意味していたのである。

<途上の困難>

 しかし、その営みは決して順風満帆とはいかなかったはずだ。航海途上の弟子たちの姿はその象徴である。ヨハネは、弟子たちが主イエスから離れて孤立していた様子を伝える(一七b〜一九節)。さらに彼らは暴風と荒波の中に漕ぎ悩む。その地点は湖岸から二十五ないし三十スタディオン(五〜六キロメートル)というのだから、行くことも戻ることも難しい。まさに立ち往生、そしてパニックである。だから主イエスが近づいてこられた時、「彼らは恐れた」(一九)という。マルコでは弟子たちは「幽霊だと思い、大声で叫んだ」(六・四九)とさえ言う。このような弟子たちの困窮の状況は、そのままヨハネの教会の人々の体験に通じたたことだろう。つまりキリスト者の自覚をもった生き方は、それ故に周囲との摩擦に労苦する生活ともなる。時には周囲から冷たく厳しく理不尽に扱われもする。孤立感を深め狭間に身をおいて立ち往生し、パニックに陥ることさえある。そうした体験はヨハネの教会員たちにはとうてい他人事ではなかったはずだ。キリスト者の生活と人生は、決して何の荒波にも遭遇しない、また荒波を被ることのない人生ではない。むしろ主イエスの教えに生きる故にその逆でさえありえる。しかし漕ぎ悩む弟子たちの姿を覚えつつ、そこでなお次のことを心に留めたい。それは彼らの立ち往生は決して最後の結論ではないことだ。それはいまだ旅の途上の出来事であることを忘れてはならない。神のみ手には次の一歩が備えられている。

<本当に存在しているお方>

 まことに弟子たちの危機は過ぎ去る途上の出来事となった。主イエスは、「わたしだ、恐れることはない」(二○b)と語る。弟子たちの困窮の直中にもたらされるのは、主イエスの言葉だ。換言すれば、困窮の中で主イエスの言葉に心を向けることが、弟子たちの行動でなければならない。そして主イエスの言葉は与えられる。主イエスは「わたしだ、恐れるな」と言う。「わたしだ」という言葉は「エゴー・エイミ」というギリシャ語である。「エゴー・エイミ」は文字通りには「わたしが存在している」という意味だ。つまり主イエスは「わたしが存在している、だから恐れるな」と語られた。これがヨハネの教会員たちに示された信仰の約束だったのではないか。「エゴー・エイミ(私が存在している)」の表現は、私が存在しているのに対して、他の呪縛の力は見せかけに過ぎない、それは本当の意味では存在していない、という強い意識が含まれている。主イエスが「わたしだ、恐れるな」と言われる時、それは真の存在の名に値する者は私だという宣言でもある。真の存在が支えるのだから、あなたたちは他の空虚なものを恐れることはないと言うのである。

<存在し続ける勇気>

 ヨハネは弟子たちの積極的な姿を強調してこの物語を語り始めた。そのことが最後に再び強調される。弟子たちは主イエスを進んで「迎え入れようとした」と記して終わる。ヨハネのこの物語はマルコ、マタイに比べて、弟子たちの積極的な姿を描く以外の点については著しく簡潔である。それだけに私たちへの呼びかけは明確だ。すなわちキリスト者よ主イエスが共に存在してくださるのだから、示された所をめざして、志を曲げるな。あなたの人生の旅を続けなさい。天に召される人生の終わりまで、存在し続ける勇気をもち続けなさい、と語りかけているのである。もとより私たちの信仰とは主イエスの召しに応えて日毎に存在し続ける勇気に他ならない。主イエスの語りかけに「アーメン(真に)」と応答しようではないか。

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