2004年7月18日 「まっすぐに見よ

ヨハネ福音書5:19-36/ミカ書7:14-20

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私について証しをなさる方は別におられる。そして、その方が私についてなさる証しは真実であることを、私は知っている。(ヨハネ5:32)
しかし、私にはヨハネの証しにまさる証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。(ヨハネ5:36)

<見たことのない者の証言>

 先ず紀元七○年代のキリスト教会に起こった大きな変化に注目したい。それは世代交代だった。しかも、その世代交代には独特の重大な側面があった。主イエスを直接知っていた世代が世を去って、もはや主イエスを見たことがない世代が信仰の担い手になったのである。ヨハネ福音書は、その世代交代が完了した後に成立した。もはや誰も主イエスを直接に目撃したキリスト者はいなかった。そうなるとキリスト証言の真実さという問題が浮き上がって来る。つまり、直接の目撃者ではないキリスト者たちのキリスト証言など信頼に値するのかという疑問や批判が、教会の内外から投げかけられるようになったのである。しかも、ユダヤ教からの厳しい圧迫も相まって、ヨハネの世代のキリスト者たちは、否応なく自分たちのキリスト証言の真実さを考え、また周囲の人々に示さなければならかったのではないだろうか。

<権威に頼らず>

 この困難な課題に取り組むのに、ヨハネ教会は、一つの覚悟を決めたように見える。それは、主イエスこそキリストだと証言する時、誰であれ人の証言に頼らないという覚悟である。誰々という高名な先生が保証するから真実なのだという風にキリスト証言を権威づけなかったのである。三六節は、そういう意味で語られているのではないか。「しかし、わたしには、ヨハネの証しにまさる証しがある」(三六a)。この節に言うヨハネとはバプテスマのヨハネのことだ。紀元一世紀ユダヤの洗礼運動を担ったその高名な指導者が主イエスをキリストだと証言しているから真実だと言うのではない。ヨハネ福音書はイエス=キリストへの信仰を、決して人の保証に依存させなかったのである。また実際、まだ世の片隅のキリスト者たちのキリスト信仰を擁護する高名な人など、およそ存在しなかった。ヨハネ教会のキリスト者たちは、この世の権威に頼らずにキリスト証言の真実を示す道を求めたのである。

<十字架と復活の主イエスに目をむけて>

 そしてヨハネが訴えたのは主イエス自身に眼差しを向けよということだった。三六節は、「わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証してる」と語る。この「業」とは主イエスの行ったことを意味しているのは直ぐに分かる。そして主イエスの行ったこととは、ヨハネにとっては、その十字架の出来事とその後の復活の出来事を意味していた。つまり、十字架の死にまでいのちを渡す主イエス、また死の後も人格の深みに語りかけてくださる主イエスの行為に、眼差しが注がれねばならないのである。ヨハネのキリスト証言が真実か否かを問う人に、ヨハネは十字架と復活の出来事の中に現れた主イエスに集中せよと言うのである。しかし、本当の問題は実はここから始まる。つまり、ヨハネ自身を含めて、もはやキリスト者の誰も主イエスの直接の目撃者ではないのである。それなのにヨハネは主の十字架に目をむけよと言う。結局、ヨハネの促す所は、言い伝えられた主イエスの十字架物語に耳を傾け、その意味を理解するということに他ならないだろう。また、既に死んでいる主イエスに出会うことがあるとすれば、精神的に彼の人格に触れる体験を通じる他にないであろう。その精神的な出会いの体験を、ヨハネは復活の主イエスに出会う体験と見ている。主イエスの目撃者ではない世代が主イエスを知るとは、まさにこのような意味なのである。これら一切の営みから得られる手応えを、ヨハネは、父の証し(五・三一、三六)、父なる神ご自身からのキリスト証言と呼んだのではないだろうか。そして、心にとめるべきは、これらの営み全ては、既にヨハネ自身の、また彼の時代のキリスト者たちの実体験だったことである。彼ら/彼女ら自身が、言い伝えられた主イエスの物語を通じて十字架の主イエスと人格的に出会っていた。また復活の主イエスに精神的に出会うという内面の体験をしっかりと持っていたに違いない。そこからヨハネは言葉を発していたのである。

<まっすぐに主イエスを見る>

 これらのことは、ヨハネ教会のキリスト者たちを、時の隔たりを越えて、現代の私たちに近づけるのではないだろうか。私たちもまたキリスト者として、もはや主イエスを見たことがない。大切なことは、そうであるからこそ、ヨハネ教会のキリスト者たちが体験した意味において、十字架の主イエス、また復活の主イエスとの出会いは、私たちにも起きる事実だということである。私たちが示されていることは、実はとても単純な事実だとも言える。今日でも人は十字架の主イエスに出会うことができる。また復活の主イエスに確かに出会うことができる。それは、何か特別な神秘的体験を必要とするのではない。主イエスの物語を心を傾けて聴き続けることの中に始まる。また祈りとして主イエスに語りかけることの中に始まっていく。祈りの心をもってみ言葉に聴き続けるという平凡な営みの中で、私たちは十字架と復活の主イエスをまっすぐに見い出すことができる。彼のみ業はみ言葉に聴き祈り続ける私たちの小さな営みに宿る。

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