イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰っていった。(ヨハネ4:48-50)
ヨハネ福音書四章四六節以下は、主イエスに一人の男が助けを求めた物語である。その中で、五○節の出来事、つまり主イエスがその男に帰ることを促し、また男がその言葉に従って帰ったこと、ここには実に驚くべき出来事が起こっているのではないか。ヨハネは「王の役人」(四六)と記すので、彼が当時のガリラヤの支配者ヘロデ・アンティパスの官僚だったと分かる。このような人物に対して、主イエスは極めて批判的だった。四八節で主イエスが「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と男にむかって言う言葉は、支配層に対する彼の批判の厳しさを示すものだ。その厳しさを十分に受けとめたい。なぜならば、その厳しさの内容を理解してこそ、私たちは五○節がまさに驚くべき出来事だったと裏付けをもって言えるからである。
この物語に先立って、ヨハネは主イエスの批判精神を示す決定的な事件を記す。二章一三節〜二五節の「宮清めの物語」だ。主イエスは、ユダヤ支配層の一翼だったエルサレム神殿の神官たちを厳しく批判した。彼らが神殿の門前商人と結託して、民衆の献金から不正な利益を貪っていたことを実力行使のパフォーマンスで拒絶した。この時、神官たちは、あっと言わせる奇跡を見せろ、それが出来れば、お前の言い分を聞いてやると、主イエスに反論する。主イエスは表面的な奇跡行為を求める彼らの空言を見抜いていた。またその背後に自分の打算のために信仰を曲げる彼らの不真実を見切っていた。ヨハネは、この事件の後も主イエスがエルサレムで人々の病の癒しを続けたと伝えている。そして含みのある言葉を加える。「多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。・・イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(二・二三〜二五)。主イエスが宮清めで表現したのは、まさに信仰の名を借りて隣人を貪ることへの抗議であり、神の導きに真実に従えとの促しだった。その主イエスの語りかけを、人々は、とくに支配層の者たちは真剣に聴かなかった。民衆にしても単に彼に病の癒しだけを欲した人もいたであろう。彼の言葉に真剣に聴く人は決して多くはなかった。神官たちの傲慢さは、そうした人々の有り様を際立って露骨に現わしたのであって、殆どの人にとって他人事ではなかっただろう。主イエスは、多くの人々が執拗に自己中心に縛られていることを、痛みをもって洞察していたのではないか
宮清め事件での主イエスの批判精神はそのまま四章四六節以下の物語に通じている。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(四八)との言葉は、その意味の批判に他ならない。人は、困窮の果てに主イエスに助けを求めることはあっても、彼がいのちを注いで語りかけたメッセージは、本気で聴こうとはしない。まして先ず神の前に真実であれと促す主イエスの言葉は、支配者としての立場や後ろ暗さを持つ人々には、自分の生き方の罪が問われるという意味でこの上なく不愉快だっただろう。いずれにもせよ、殆どの場合、だれもが自己中心の罪に囚われてしまっている。このような人間の赤裸々な罪の姿は、エルサレムの神官とヘロデの官僚との違いを問うまでもない。だから主イエスの言葉はこの人物に対しても手厳しかったのである。それでは、死に瀕したわが子のために切ない思いで訪ねてきたこの人に、主イエスは、律法学者よろしくお前は罪ある者、罪の清めに励むことが先だ、それでこそ助けを求めるに値すると戒めたのだろうか。この会話の瞬間に、この人が問われたのは、ただ一つのことだった。それは、主イエスの口からでる言葉を聴いたいま、本気でその言葉に信頼してみる気があるか否か、それであった。
ある神学者は、遠路を自ら訪ねて来たこの人は信仰深かったので、主イエスは彼の願いに答えたのだという。そうだろうか。むしろ、遠路をも越えて来たのは、わが子の救いを求めて困窮しきったこの人の現実を語っている。その困窮を知るからこそ、主イエスはその罪を厳しく批判しつつも彼に言う。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(五○a)。主イエスが差し出したのは、当然の断罪ではなく、驚くべき憐れみだった。憐れみに値しない者への憐れみであった。彼は主イエスのその憐れみに信頼するか否かを決めなければならない。「その人はイエスの言われた言葉を信じて帰っていった」(五○b)とヨハネは記す。見失ってならないことは、この人に一歩を踏み出させた主イエスの憐れみを私たちの心にも刻むことである。私たちがキリスト教信仰に踏み出す最初の一歩には、この人と合い通じる体験がある。それは、主イエスの驚くべき憐れみに触れて、否、押し出されて一歩を踏み出す、その体験である。主イエスは私の罪を私の気づかない深みまでも見抜いておられる。しかし、彼は約束の言葉を与えて私を招かれる。ただ彼の憐れみの言葉に触れて、私たちは、再び自分の人生の問題の場に帰っていく勇気を与えられるのではないだろうか。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰っていった」。