2004年7月4日 「労苦の実り

ヨハネ福音書4:27-42/ヨナ書4:1-11

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そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。(ヨハネ4:37-38)

<戒めの背後に>

ヨハネ福音書四章三一節〜三八節は、その前後の主イエスとサマリアの女の物語とは明らかに異なる。ここにあるのは主イエスと弟子たちとの対話だ。その対話の締めくくりが、三七節〜三八節である。この戒めは、種まきと刈り入れに働く農夫に譬えて、福音伝道の働き人に対する戒めを語ることは直ぐに気づくだろう。そのことを知った上で注目したい。それは、この伝道への戒めが、サマリアでの主イエスの働きの物語に、丁度サンドイッチのように挟みこまれて記されたということだ。言い換えれば、これらの戒めは、ヨハネ福音書を記した人々が記憶していたサマリア伝道の歴史と深く結びついていたのではないだろうか。

<サマリア伝道は苦難と共に>

 それではヨハネ福音書の人々が記憶していたサマリア伝道とはどのようなものだったのか。ヨハネは、主イエスのサマリア伝道の結果、「更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」(四一)と言う。しかし、これは歴史の事実ではない。あくまでも信仰の教えのための説話と言うべきだ。むしろ、キリスト教徒によるサマリア伝道の実際は、使徒言行録八章一節以下の生々しい記録によって知ることができる。「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」(八・一b)。主イエスの十字架の死の後、復活信仰が生まれ、最初のキリスト教徒の群れが誕生した。エルサレム教会である。しかし、間もなくユダヤ教からの迫害を受けて、エルサレム教会員の多くは他に逃れなければならなかった。その避難先にサマリアも含まれていた。こうして迫害によって押し出されて始まったという意味で、サマリア伝道とは、苦難と共に始まった伝道であり、予期せぬ伝道だったのではないだろうか。これがキリスト教徒たちのサマリア伝道の始まりだった。ヨハネ福音書はこの記憶を心に刻んでいたのである。

<神の進める伝道>

 サマリア伝道を予期せぬ伝道と呼ぶことは、さらに説明の必要があるかも知れない。使徒言行録によれば、最初のキリスト者たちは、ユダヤ人同胞以外の人々に対して、決して進んで伝道を志したのではないことが分かる。パウロの異邦人伝道が、たえずユダヤ人キリスト者の無理解や偏見との闘いでもあったことは、そのことを裏書きしている。さらにペトロたちエルサレム教会のユダヤ人キリスト者は、しばしば異邦人のキリスト教への回心に驚きを表しているが、それがユダヤ教的偏見を打ち破られての驚きだった一面は否定できない。このことはサマリア人伝道も例外ではなかった。むしろ、ユダヤ人とサマリア人との民族対立の根深さを知っていたエルサレム教会の人々に、サマリア伝道を期待することは不可能に近かったかも知れない。その意味でサマリア伝道は予期せぬ伝道であったと言える。何かが、また誰かが偏見に縛られたキリスト者たちの鎖を解いて押し出さねばならなかったのである。結局、迫害がエルサレム教会に転機をもたらした。使徒言行録は言う。ステファノの殉教の後、「散っていった人々は、福音を告げ知らせながら、巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」(八・五)。ここには、神のみ業は、伝道の歴史においても、人間の罪ゆえの弱さを打ち破って進められることが見事に示されている。キリスト者ではなく、神ご自身こそ福音の伝道を押し進めておられると言うべきではないか。

<労苦の実りに与る>

 この後フィリポの伝道は、理想化されて語られる。しかし、数節を費やして土地の魔術師との確執を語るなど、実際のサマリア伝道は労苦に満ちていたことが窺える。この歴史を踏まえれば、三七節〜三八節の戒めが心に響いてくる。つまり、ヨハネが「一人が蒔き」(三七)と語り、「他の人々が労苦し」(三八)と言う時、それはフィリポや無名のキリスト者たちの労苦に満ちた働きを記憶していたと言っていい。さらにヨハネ教会はパレスチナに誕生したと考えられることから、まさにヨハネたちがサマリア伝道の働きを受け継いだのであろう。そうであれば、「あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(三八)という戒めは、ヨハネたちに自戒を求めているのである。その自戒をヨハネは主イエスの口から発せられた言葉として記す。この教会の人々は、サマリア伝道の働きを主イエスに対する厳粛な思いで受け継いだのである。伝道の働きとは、感謝と謙遜と責任の自覚を伴うことだと言えるのではないか。私たちもまた感謝と謙遜と責任の自覚の中に、もう一度この物語を受けとめたい。とくにこの戒めが、主イエスのサマリアでの物語の狭間におかれ、彼の自由な心と隣人への慈しみを強く印象づけて語っていることを心に刻みたい。この主イエスの伝道に倣うかぎり、私たちの伝道は一方的に相手に変化を求めることではなくなる。それまでの自分の偏見と傲慢から解き放されて、自らも造り変えられながら神が愛してやまない隣人と出会っていく営みとなる。このような伝道の実りとは明らかではないか。全ての人が主イエス・キリストにあって本物の生まれ変わりと和解と共生の中に生きる体験を与えられることである。

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