2004年6月27日 「主イエスが水を乞う

ヨハネ福音書4:5-26/ミカ書4:1-7

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そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。・・すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。(ヨハネ4:6-7、9)

<出会いの真実>

 ここには、一人の女と主イエスとの対話が始まる瞬間の出来事が記されている。後に続く対話は三章前半のニコデモとの対話と比べて見ると興味深い。一方のニコデモはユダヤ人の高名な宗教の権威者。他方この女は無名の人。しかも彼女はユダヤ人が軽蔑したサマリヤ人であり、その同族の間でも不名誉な過去を持つ女と見なされた人だ。しかし、信仰の真理に関わる深い対話は、主イエスとニコデモとの間では交わされなかった。かえって主イエスとこの無名の女の間で交わされた。ヨハネはこのような逆説と慰めに満ちた対話を私たちに伝えてくれた。しかし、その際、どうしても主イエスを神の全能の力を持つ方として強調したかったのだろう。主イエスが女の過去を既に見抜いておられる故に、この対話が生まれたものと見ている。そのヨハネの意図は受けとめたい。しかし、たとえヨハネは明らかに触れていなくても、主イエスとの真実な出会いというものを考える時、決して見過ごしにできない大切な真実がこの出来事には語られているのではないだろうか。

<人目を避ける女>

 ヨハネは、主イエスが旅の途上でサマリアの町シカルのヤコブの井戸の傍らに座り込んでいたという。その主イエスの前に一人の女が水くみに現れる。この女の行動はいかにも訳ありげだ。実は、ヤコブの井戸は不便な井戸だった。この井戸は町の外にあったので、町の人々は町中のもっと近い井戸を利用した。ところが、この女は、あえてヤコブの井戸に来ている。また、この井戸は岩場の亀裂の底に浸透水が溜まってできた水場で、岩場の傾斜が急なために人が水場まで下りることができない地形だった。そこで紐を結んだ革袋を水場に吊り下ろしてくみ上げた。さらにヨハネは女の水くみが「正午ごろだった」と記す。この時刻は暑さの厳しいパレスチナでは、水くみの重労働は避けるものだ。あえてその時刻にこの女は水をくむ。井戸は不便な場所にあって水くみ作業も難儀、働く時刻も不適当。ヨハネはこの女がひたすら周囲の人目を避けざるを得ない境遇の人だったのだと語っているのである。

<自由な方、主イエス>

 しかし、この女は主イエスに出会った。それは誰にも会わないで済むと予想していた女には以外な出来事だっただろう。否、それだけではなかった。その人は渇きを訴え水を乞うたのである。このことに至っては、彼女が想像したこともない出来事だったはずだ。九節はその事情を語る。当時のユダヤ人とサマリア人は、四百年前にも逆上る宗教上の対立を背景に、しばしば流血の敵対関係に陥っていた。幾世代にも渡って、相互不信と憎しみがそれぞれの日常生活の隅々にまで浸透していた。例えばユダヤのラビ(律法学者)はサマリヤ人の飲食の器に口をつけるのは、忌まわしいことだと教えた。そうした現実からすれば、ヨハネが記した出会いの情景は、どう見ても尋常のことではない。ユダヤ人イエスが、ためらいも見せずこの女に水を乞うているのだ。当然にも彼女の器から水を飲むことになる。四百年間の民族的な不信も憎しみも、対立を鼓舞する宗教の教えも、主イエスの心を縛ることは出来なかった。その主イエスの姿に、私たちはこの方の驚くべき自由な心を認めることが出来る。主イエスは、その自由な心で隣人をあるがままに受けとめて、私たち人間が作りだす不信や憎しみ、世の権威の偽りを越えて、ひとりの人と出会っていく。この主イエスの姿が、私たちの心にもこの方への信頼を呼び覚まし、心を開かせ、私たちは、信従の道を生きていくことができるのではないか。

<慈しみの心を>

 しかし同時に、主イエスが渇いて水を求めたことを心にとめたい。渇いた主イエスは、この女のやさしさを必要としたのである。女がこのユダヤ人の願いを退けることは十分にありえたことだ。だが、女は主イエスの願いを受け入れた。ニコデモではなく、この無名の女に困窮する隣人への別け隔てない慈しみの心を見いだすのは偶然だろうか。ところで、ヨハネの関心は他にあるので、その後のこと、つまりこの女が主イエスに水を与える姿も彼が渇きをいやされる姿も記していない。しかし、先ず主イエスはこの女の器から水を飲んだと考えねばならないだろう。彼女のくんだ水を飲む主イエスの姿を目の当たりにしたからこそ、この女は主イエスに信頼して心を開き、自らの人生の破れを正直に語りだし、深い魂の渇きを告白し、神を信じて生きる真実を見いだす対話が可能になったのではないか。その意味でヨハネの伝えない水を飲む主イエスの姿こそ、この対話の根底を支えていると思われてならない。そこには愛の説明ではなく行為となった愛そのものがある。翻って、今日の私たちも、隣人に水を乞われることがある。水を求められるとは、慈しみを求められることだ。その求めに答えて奉仕に一歩を踏み出す時、私たちは、信仰の一歩もまた踏み出している。そこで私たちは、孤独だと思っていた自分の生活の中に思いがけない主イエスとの出会いを知る。さらにまた真実の信仰の深みを示される。だから、いつも隔てない慈しみをためらってはならない。今も主イエスは困窮する隣人の中にそっと私たちを訪れる方だ。

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