2004年6月20日 「衰えと喜び

ヨハネ福音書3:22-36/ハバクク書2:1-14

←一覧へ戻る

ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受
けることができない。」(ヨハネ3:27)
「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない。」(ヨハネ3:30)

<意気盛んな人が衰えることを喜ぶ>

 ヨハネ福音書は、主イエスとの関係で洗礼者ヨハネにこれらの言葉を語らせている。とくに三章三○節の言葉を聞いて、これは年取った老人のため息まじりの言葉であると言った人がいる。しかし、その印象は二つの点で訂正しなければならないだろう。第一は、ヨハネは老年になって嘆いてこう語ったのではない。この時のヨハネは壮年の盛りにある人物と見なされるからである。言い換えれば、これらの言葉は、ヨハネの如く勢いをもって今を生きている人にとって決して無関係な言葉ではないのである。第二に、これらの言葉は、決してヨハネの悲哀の感情を語っているのではない。むしろその逆で、ヨハネは「わたしは喜びで満たされている」(二九)と告白する。このようにヨハネの言葉は、今、衰えることとは縁がないと見なされる意気盛んな人の告白である。しかも、嘆きではなく、むしろ喜びの告白である。ここには、いったい何が語られているのだろうか。

<衰えるヨハネの運動>

 この物語は、ヨハネによって指導された信仰復興の運動が、主イエスに導かれる新しい運動に次第に道を譲っていく、その狭間でヨハネが告白を語るという粗筋になっている。つまり、ここでヨハネが「わたしは衰える」と語った言葉は、彼の若さや活力が衰えるという意味ではない。信仰者としての彼の担っていた運動が衰えるという意味である。それではヨハネの運動とは何か。彼は、自分たちの時代は破局に向かっていると実に敏感に感じ取っていた希有の宗教指導者だった。そこで彼は、人々に向かって神のみ心に従う生き方に再出発せよと促す運動を起こしたのである。ヨハネの呼びかけは「悔い改め」という言葉に集約された。彼は具体的には、町を離れて荒野に暮らし、そこで洗礼の儀式を行うことに力を入れた。ヨハネの洗礼は民衆の心を捕らえ、主イエスも彼に共感して、その手から洗礼を受けたひとりだった。ところが、そのヨハネの悔い改めの運動が衰えるというのである。しかも、主イエスの登場によって、その衰えが始まるというのである。

<継承と変革、そして相対化>

 ヨハネが自らの運動が衰えていくと語った時、それは具体的にはどのようなことであったのか。ヨハネと主イエスとの関係を知ることでそれが明らかになる。両者の関係は、継承と変革という言葉によってよりよく言い表すことができるかも知れない。先ず、継承とは、ヨハネの運動の精神が受け継がれるということである。ヨハネは、いのちに至る道は悔い改めて神に立ち返る行動にこそあるという確信を説いた。その確信に根ざした生き方は、主イエスを通して決定的に深く豊かにされながら継承されたと見ていい。他方、変革とは、ヨハネの信仰の行為が主イエスによって作り替えられていったということである。つまりヨハネの荒野の禁欲的生活と洗礼式中心の行為を、主イエスはそのまま受け継ぐことはしなかった。主イエスは荒野には留まらなかった。むしろすすんで町に出て、そこに生きる民衆の中に生活した。また彼は、ヨハネと異なり自らは洗礼行為を行わなくなり、弟子たちの手に委ねてしまっている(四・二)。むしろ、主イエスはあらゆる人との別け隔てない食卓の交わりや癒しの行動を重んじた。そして私たちは、主イエスとヨハネとの関係において、もうひとつの決定的なことが起こっているのを忘れてはならない。それは、主イエスの存在によってヨハネは相対化されたのだということである。相対化とは、主イエスによる継承と変革を通じて、ヨハネという人の担った運動とその意味は限界づけられたということである。ヨハネと彼がもたらしたものは、たとえどんなに偉大なものであったとしても、決して絶対でも完全でもないことを明らかにされたのである。しかし、ヨハネはまさにそのことを喜びとして告白したのである。このようなヨハネ像はキリスト教徒側の見方による理想化が施されているのであろう。それにしても、この福音書によって、ヨハネは深く信仰のあり方を訴える人として私たちに示されている。この人は自らの担った生き方とそこに実った果実を絶対視することのない信仰者であった。むしろ、主イエスにおいて自分の存在を相対化して受けとめることができた深い喜びの人であった。

<断片としての喜び>

 主イエスにおいて、私たちもまた自らが相対化されるという経験をする(むしろ、してきた)のではないか。神の前に生きる人として自分が断片であることを気づかされると言ってもいいだろう。そして、このことはただ単に、だから傲慢を離れて謙遜になれと教えているだけではない。むしろ、この体験の中に私たちは、一人ひとりに対する神の肯定を告げられているのではないか。だれもが、自分がひとつの断片であることをそのまま断片として生きればいいのである。なぜなら、この断片は神が与えてくださったかけがえのない恵みとしての断片である。否、神の慈しみがなければ、私たちはこの断片ひとつさえも持ってはいなかったのだということを忘れてはならない。この意味において、私という断片は、神の肯定をあらわしている存在に他ならない。奢らず卑下せず、私のこの大切な断片の営みを主イエスを通して、感謝と信頼のうちに神に差し出していこう。

←一覧へ戻る