2004年6月13日 「新たな道に立っている」

ヨハネ福音書3:1-15/申命記6:17-25

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イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)


<キリスト者に服従を問う>


 冒頭に引いた両節の言葉が、キリスト者である私たちに問いかけられたならば、はたして、私たちはこれをどのように受けとめるだろうか。実は、これらの言葉は、元来キリスト者に対して、主イエスに従う信仰の歩みを問いかえす意図をもった言葉だと見ていい。説話としては、主イエスがファリサイ派ユダヤ人の宗教指導者ニコデモに向かって教えられた言葉として記されている。しかし、この説話の背景には、ヨハネ教会の事情が反映していると見られ、その点に注目してみると、主イエスの言葉は、実はヨハネ教会のキリスト者たちに対する言葉でもある。この言葉によって、ヨハネ教会のキリスト者は一体、どのようにそれぞれの服従のあり方を問いかけられたのであろうか。


<人の決断、神の導き>


 ヨハネ教会は、少なくない脱落者が出て、教会員は衝撃と動揺を受けていたようだ。しかも脱落者したのは三章一節以下の説話から、求道者ではなく既に洗礼を受けたキリスト者たちであったことが窺える。これは、少数者の共同体だったキリスト者たちにとって、どれほど深刻な悩みとなったことだろうか。ヨハネはその苦悩の中で主イエスのみ心を模索して語った。それが三節、五節の言葉となる。三節は「新しく生まれる」と表現する。これは新約聖書が書き進められていた時代、キリスト者たちが、信仰者となった体験を表現する独特の言い回しだった。それは、その言い方でなければ、表現できないような根本的な人生観の転換を味わったからである。そういう新しい誕生としか表現できない生の体験を、五節では、「水と霊とによって」可能となるのだと言い換えている。「水によって」と説明される時、それが洗礼を指していることはすぐに分かる。もっとも水という物質で洗礼を象徴させたとはいえ、洗礼にはそれを受ける人の意志が先立っている。その意味では洗礼とは、主イエスに従おうとする人の決断の意志を示しているとも言える。他方、「霊によって」と言う時、それは洗礼のように目に見える形は伴わないが、神からの働きかけによることを語っているのである。こうして、「水と霊とによって」という表現は、主イエスに従う人の意志と、それに対する神の導きという二つによって、と言っていることが分かるのではないだろうか。


<赦しの霊の導きを求めつつ>


 こうして、キリスト者に向けた言葉としての二つの節の意味が明らかになってくる。洗礼を受けて主イエスに従う生き方を決断したはずの人が、ある時、最初の服従の決意を投げ出して、教会を去っていった。当然にも教会に踏みとどまったキリスト者の心には悲しみと問いが生じたであろう。主イエスに従うと熱い思いで決断したのに、何と人の心は弱く信仰は脆いものであることか。ユダヤ教を始めその時代からは蔑みや警戒の目で見られ、しばしば迫害の餌食にもされたキリスト者たちにとって、洗礼まで受けた友の脱落を見ることは、自分の心の弱さや挫折の可能性をも見せられる辛い体験だったであろう。主イエスに従う道は厳しい道ともなりえる。その逆境の中に身をおくキリスト者たちに、ヨハネは主イエスの言葉を、つまり主イエスの心を語りかける。主イエスに従う自分たちの歩みを全うさせるものは、自らの人間としての決意だけではない。人間の決意は事柄の片方でしかない。もう一方に見失ってはならない大切な事がある。それは人の決意に対する神の受入れであり、導きであり支えである。ヨハネはこのことを訴えているのではないだろうか。


<神の慈しみから>


 こうして八節は言う。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」神の霊の導き支えは妨げられない。その業は究めがたい。しかし、その力が我が身に迫り、確かに自分を導いている事実を、キリスト者たちは体験して知っているではないかと言う。八節はキリスト者を神の導き支えに信頼せよと促しているのだ。翻って、今日の私たちも主イエスに従う決意を洗礼から歩みだす。しかし、私たちも信仰の服従に時として破れる。必ず何かの挫折を味わうと言う方が真実かも知れない。時には、主イエスから逃亡して身を隠そうとさえする。また私たちは、たとえ信仰の歩みを続けてきた時にも、正直に考えると、それが自分の力によるのではなかったと気づくのではないだろうか。それは、貧しい信仰の決意が神の霊によって守られ育まれ、導かれ支えられたからである。その根底にあるものを一五節は、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と言う。これからも私たちはしばしば主イエスに従う歩みを担いきれないことがあるだろう。しかし、神は私たちの主イエスに従う決断と志を、たとえ貧しいものであっても決して軽しめない。忍耐をもって導き支え通される。何故であろうか。一五節が告げるのは、私たちに対する慈しみを永遠に貫き通すという神の決意である。その慈しみが、あらゆる人の歩みの前に、どのような挫折にも先立って存在している。その慈しみに信頼して再び新たに従う道に立とうではないか。

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