2004年6月6日 「主イエスの神

ヨハネ福音書14:8-17/エゼキエル書40:12-17

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わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。・・・わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。(ヨハネ14:10-11)

<イエスは救い主か>

  信仰の歩みには疑いや迷いの時がある。ヨハネ一四章一○節〜一一節は、主イエスを通して神を信じる信仰の歩みに疑いや迷いを懐いた人々を強く意識した言葉ではないか。ヨハネ福音書が生まれた一世紀末、キリスト教徒は、繰り返し一つの疑問を周囲から突きつけられた。それは、どうしてナザレ人イエスは、神から遣わされた救い主(キリスト)といえるのかという問いだ。神は汚れた人間世界から超然としている聖なる存在だというのが、古代地中海世界の人々の代表的な神のイメージだった。そのイメージを懐く人々からすれば、ナザレ人イエスの姿は想像を絶していた。十字架の極刑で惨めにいのちを奪われたガリラヤの大工の子が、聖なる神と完全に一つに結ばれた救い主である。このキリスト者の信仰は、あり得ない破廉恥な教え以外の何ものでもないと見なされた。ヨハネは、そういう思いを懐く人々の問いや迷いに答えるかのように、主イエスと神は一つという証言を主イエス自身の言葉として語ったのではないだろうか。

<主イエスは救い主を語らない>

 しかし、このヨハネの言葉はヨハネ自身の編集であって、そのまま主イエス自身の言葉とは考えられない。この言葉はヨハネ教会のキリスト告白なのである。主イエスこそ神と一つなる方、すなわちキリスト。ヨハネは人々がこのキリスト告白を受け入れ、確信としてくれることを切実に願って、これを主イエスの口に語らせたのであろう。しかし、そのことを理解した上で、私たちにとって、なお決して見過ごせないことがある。それは、実際の主イエス自身は自らを神のキリストとする称号や言葉でアピールしたことはなかったということだ。それは終始一貫している。言葉を換えれば、主イエスは、いかなる表現であれ、自分が神との特別な関係にあると言って自らを権威づけたり、その権威を後ろだてに人々を説得したりすることはしない方だった。

<「その業によって」>

 このことを弁えて再びヨハネの言葉に注目する時、私たちは印象深い言葉に気づく。「業そのものによって信じなさい」(一一)という言葉だ。ヨハネは繰り返して主イエスと神とは一体であると語りながら、しかし一一節の最後にこう言う。如何に信仰への呼びかけをしても、主イエスを信じる決断に迷う人間の心にヨハネは気づいていたのかも知れない。さらに言えば、主イエスをキリストと呼ぶ告白の言葉、それは、いわば主イエスについての信仰の説明でもある。ヨハネは、信仰の決断に迷う人に、あなたは主イエスの「業」に眼差しを向けよと言うのである。ヨハネのいう業とは、奇跡や癒しを行う主イエスの働きを指す。つまりヨハネは、主イエスについての信仰の説明ではなく、主イエスの働きを見よと言う。私たちはさらに一歩を進めて、良き働きをなす主イエス自身に眼差しを向けるべきだと言った方がいい。そして、主イエス自身に眼差しを向ける時、言い換えれば、主イエスを神格化したヨハネの説明から自由な眼差しで見つめた時、まさに正真正銘の人としての主イエスがそこに立っている。

<人間イエスを通じて>

 この発見はヨハネに留まらない。どの福音書でも、実際の主イエスは、自らが天来の者だ、人間を超越した神聖な存在である、そうしたアピールをして、私が言うのだから信じなさいと信仰を求めることは決してしていない。むしろ、この方は、その種のアピールには無関心に、ただ神への全き信頼とその憐れみへの確信を示している。片隅に追われた隣人に慈しみの心を燃やし、その為に非人間的な力に抵抗し、別け隔てなく友情といのちを喜んでいる。そして、あまりに自由なので厳格をきどる人々からは罪人の仲間と非難された人だったことが分かる。結局、私たちが見い出すリアルな主イエスは、誤解を恐れずいえば、何よりも先ず、最も人間性の深さと豊かさを感じさせずにはおかない魅力的な人である。私たちがその後に従いたいと思わずにいられない人らしい人である。私たちはこの主イエスの人格に出会うことなく、どうして彼を通じて真の神への信仰に導かれることができるだろう。

<主イエスの神を>

 ヨハネに限らず、私たちもまた、熱い信仰の思いのゆえに、主イエスをもっぱら信仰の対象となった存在として、人々に説明してしまうことがあるのではないだろうか。しかし、繰り返して言うが、信仰告白の言葉は、あくまでも信仰を懐く私たちの説明の言葉であって、主イエス自身の言葉ではない。また同時に主イエス自身は神と特別な関係で自分を語ろうとしなかった。それ故、私たちはこの方をよくよく見つめて、彼が私にとって誰であるかを自らの心と頭で、一途に見いださなければならない。私たちは、主イエスとの人格的な出会いの中で、この方への究極の告白を育み、この方によって神を知るのである。彼に倣いつつ神信仰に深められると言ってもいいだろう。そして主イエスの神が、私の神でもあることを確信をもって味わい知るようになるのではないか。神を求める人は、主イエス自身を求め続けようではないか。

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