2004年5月30日 「もうひとりの弁護者

ヨハネ福音書14:15-27/エゼキエル書37:1-14

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 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。(ヨハネ14:16-17a)

■子どもたちに■

<イエス様を見たことはないけれど>

  ある時、「イエス様はどんな顔をしていたの?」と聞かれました。本当にどんなお顔だったのだろう。写真はない。絵はたくさんあるけど、ずっと後になって想像して書いた絵ばかりです。今では誰もイエス様の顔を知りません。またどんな声だったかも分からない。それでも、私たちはイエス様のことを知ることができます。またイエス様が大好きで信じています。いったいどうして顔も見ない声も聞かないイエス様のことが分かるのか、また信じて従うことができるでしょうか。

<見ないで知ってるわけがない>

 ずっと昔、イエス様の生きた時代にはイエス様の顔も声もよく知っている人々がいました。マグダラのマリアやペトロなど最初の弟子たちです。けれども、その人たちが死んだ後、教会の中にはイエス様を直接に知っている人は一人もいなくなってしまいました。その頃になると、教会に反対して、クリスチャンはうそつきだと言う人々もいたのです。その人々は、クリスチャンはイエス・キリストを知っている、信じる従うなんて言うけれども、誰もその顔を見てないし、声も聞いたことがないじゃないか、知っているなんてうそだと言うわけです。

<聖霊によって>

 そう言われて、教会の人々は答えに困ったようです。そのとき、「イエス様の顔を見なくたって、声を聞かなくたって、私たちはイエス様を知ることが出来るし、信じ従うことができる」と、みんなを励ました人がいました。それがヨハネです。ヨハネは、私たちの心に働きかける神様のことを聖霊と呼びました。その聖霊のことを一六節では「弁護者」と言っています。弁護者と言ったは、聖霊が助けてくださるのが、ちょうど裁判で弁護士が他の人の反対から守ってくれるのに似ているからです。また、聖霊のことを「真理の霊」とも言っています。聖霊は本当のことを教えてくださるからです。たとえ一度もイエス様の顔を見ていなくても、声を聞かなくても、聖霊は私たちをイエス様に出会わせ、その教えを正しく知って、信じ従うことができるようにしてくださる。私たちも聖霊に助けをお祈りしたいと思います。

■大人たちに■

<主イエスなき後を生きる>

子どもたちに話した通りです。付け加えて新たに言うべきことは多くはないと思います。弁護者であり、真理の霊である聖霊は、主イエスの地上の生涯が終わった後の時代の神のお姿です。しかし、聖霊なる神に導かれるということは、同時に私たちに一つの覚悟を促しています。もはや主イエスはいない。しかしなお、私たちキリスト者は地上の人生を歩み続けなければならないのだということです。実際、私たちの信仰の先達はそれぞれの時代をそのように歩み続けてきました。そして世界の歴史は、キリスト者に対して、繰り返しある疑問を突きつけて来たのではないでしょうか。キリスト教徒が主と仰ぐイエスは、巨大な権力の前にもはや跡形もない者ではないか。キリスト教徒はその挫折して失われた者の後を追って、結局は同じように報われない道を突き進もうとしている愚か者ではないのか。そのような懐疑や嘲笑は形を変えながらも、いつの時代にも繰り返し見いだされると思います。言わば私たちは、主イエス・キリストへの信仰は、本当に人間に救いの希望を与え、世界に平和をもたらしうる力なのかと繰り返し問われ続けているのです。

<聖霊の導きを求めて>

 このような問いの前に立つとき、私たちは、ペンテコステの出来事という教会の原点から、自らの確信がどのようであるのかをふりかえって見る必要があります。私たちは誰一人として主イエスを直接には知りえません。その意味では主イエスの不在の時を生きています。だからこそ、信じることが私たちの真剣な課題となる。ただ、見えざる聖霊の導きを信じて、つまり信仰への決断をもって、主イエスの弟子の道を生きなければなりません。そして信仰の心でみことばに聴いて生きようとする時、たしかに不在でありながら、しかし、同時にたしかに今も生きている主イエスとの出会いを経験するのです。出会ったこの方に従う生活から根源からの救いと平和を示される経験をします。ヨハネは一七節に「しかし、あなたがたはこの霊を知っている」との言葉を挿入しています。また二七節に「この世が与えるように与えるのではない」平和を語っています。これらの言葉の背後には、聖霊に導かれた彼自身の主イエスとの出会いの体験が告白されています。私たちは信仰に生きようとする者としての自分の弱さは自覚にまさる弱さだと思った方がいい。主イエスへの信仰の意味や現実を変える力を問われて、迷いやためらいを感じたことがなかったでしょうか。しかし、その弱さが自覚できるからこそ切実な祈りも次のような言葉となって生まれてくるのです。信仰の支えを誰にもまさって必要としているのは、この私です。弁護者なる聖霊の導きを信じさせてください。たえずいまも生きて救いと平和を創造するために先立っておられる主イエスに出会わせてください。この祈りから再び出発しようではありませんか。

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