2004年5月23日 「何が渇きに答えるか

ヨハネ福音書7:32-39/列王記2:1-15

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 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)

<仮庵祭の時に>

 三七節後半からの言葉を主イエスの呼びかけとして記すにあたって、ヨハネはユダヤ教の大祭、仮庵祭に時期を設定した。この設定は主イエスの言葉を理解するのに決定的な手がかりを与える。仮庵祭の「仮庵」とは野営用テントのことで、ユダヤ人はこの祭りの期間中、それに似せたテントを作って祭りのシンボルにした。この祭は「出エジプト記」の伝承に由来した。おそらく紀元前千二百年代、エジプト王ラメセス二世の時代、彼の王国にはユダヤ人の祖先たちが寄留していた。しかし、この王はこの民を建設工事に動員して絶滅を計るが如く酷使した。そこで民は、非人間的な待遇を拒んで、指導者モーセの下、自由を求めて脱出を計った。難民たちの脱出は危機的な事件が続く旅だったが、人々はついに解放を勝ち取った。この出来事は、今日の私たちから見ると生存さえ脅かされた人々の自由への解放、またいのちの尊厳の回復の事件だったと言えるだろう。その事件の意義を先祖を導いたのは主なる神だと信じて、感謝と共に思い起こす時が仮庵祭だった。

<神殿は渇きを癒せない>

 主イエスはこの想起の時に人々に呼びかけたとヨハネは記す。しかもそれは祭りの最終日だったという。ここに明らかなヨハネの意図がある。当時、仮庵祭の最終日には、エルサレム市内のギホンの泉に神殿の大祭司が水を汲みに来た。神殿の祭壇を清める儀式のためだった。大祭司は金の壺で厳かに水を汲んだ。「渇いている人は・・」と主イエスが呼びかけるのは、明らかに大祭司による水汲みの儀式を意識しているからではないか。そして主イエスは「だれでも、わたしのところに来なさい」と続ける。ここに言葉を補うと意味が明瞭になる。「だれでも、大祭司や神殿ではなく、わたしのところに来なさい」と言ったのだ。主イエスは、神殿の大祭司がどんなに荘厳な儀式を行っても、人々の渇きを癒すことは出来ないと見抜いていたのではないか。癒されない渇きとは仮庵祭によせる人々の願い、いのちの解放と尊厳を求める人々の祈りであった。このことは当時の神殿の実態によってよく分かる。ローマ帝国の植民地支配がユダヤ民衆を抑圧していた最中、神殿祭司たちはローマに迎合して自分たちの利益を守ることに汲々としていた。さらに神殿儀式は、そういう彼らの利益の為に民衆を搾り取る道具になっていた。端的に言えば、ユダヤの神殿宗教は、どんなに荘厳さを装っても決していのちの尊厳を求める人々の願いに答えることも、人々を解放に導く聖書の神を正しく示すこともしなかった。かえって時代の権力者と共に神の名を借りて人々を抑圧した。いわば、世の罪の力の一部になり果てていたのだ。主イエスの言葉は、その偽りの宗教の本質をみごとに暴いている。

<わたしのところに来て飲みなさい>

 それでは、いのちの解放と尊厳を求める願いに誰が答えられるのか。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と主イエスは答える。ヨハネはいのちの尊厳を求める人に真実に答えるのは、主イエスだという。彼の確信を次のように言い換えていいだろう。目を覆いたくなるような権力の罪が吹き荒れる時代の中で、切なる思いでいのちの尊厳を願う人は、主イエスを見上げよ。神に従い奉仕の愛に生きた主イエス、殺されたが今なお彼を愛する信仰の心には復活して生きている主イエス。彼の行動と言葉は私たちに勇気と希望を与えることが出来る。さらにヨハネは言う。主イエスを信じ従って歩み続ける人は、その人に注がれた信仰の勇気が、その人の「内から生きた水が川となって流れ出るように」傍らの隣人をも励まし力づけることを体験するようになる。ヨハネ福音書の時代にもキリスト者たちは、権力者たちが民衆に振るう理不尽な暴力や支配を目の当たりにしがら主イエスに従う歩みを続けていた。「生きた水」の約束を記しながら、ヨハネはこの約束は困難な時代を生きる自分たちへの約束だと信じていただろう。私たちもまた今日の時代に対する私たちのへの約束として主イエスの言葉を受けとめようではないか。

<生きた水が川となって>

大学の私のクラスで、これからの学びに意欲を燃やしている新入生と出会った。先日、資料作りのために新聞の切り抜き術を手ほどきすると、その後毎日五時間もかかってしまうと言いながら、熱心に実行してくれた。私はその情熱が理解できた。この学生は私の戸手の信仰体験記を読んで、人間同士の共生を考える学びにやる気になってくれているのである。近年、時代に危惧を抱きながらも、隣人のいのちに対する自らの感性、苦境にある人への共感の心が鈍くなっていると痛感していた私は、赤面の思いであった。そして主イエスに従う奉仕の志をあらためて思い起こさせられた気がした。あらためて心に刻みたい。主イエスは、彼に倣い隣人への尊敬と思いやりをもって生きたいと願う私たちの小さな志を、励まし支え用いてくださる。そして、主イエスご自身が私たちを用いて人々の心を捉え養っていく。大切なことは何か。主イエスに従って歩み続ける時、この方の約束の言葉は、いのちが軽んじられる時代の中で、真実に渇く人々の心を支える生きた力となる。このことである。

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