2004年5月9日 「想起の信仰」

ヨハネ福音書15:18-27/エゼキエル書36:24-28

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 世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎ん でいたことを覚えなさい。                                                              (ヨハネ15:18)
 『僕は主人にまさりはしない』とわたしが言った言葉を思い出し なさい。                                                                          (ヨハネ18:20a)

<「世の憎しみ」と語る背後に>

 ヨハネ福音書一五章一八節は、「(世が)わたしを憎んでいた」と主イエスの口に語らせる。この 言葉が、主イエスの十字架事件のことであるのは容易に分かる。主 イエスは、エルサレムのユダヤ人支配者たちに憎悪され、それを利 用した征服者ローマの手で殺害されていく。つまり、「世」とは彼 らエルサレムの支配者たち、また「憎んでいた」とは彼らがイエス に殺意を抱いたということだ。しかし、ヨハネは「世」と言い、「 憎んでいた」と言い換える。何故だろうか。そこには、福音書とし て主イエスの受難を語りながら、その背後にヨハネ自身の問題意識 と信仰の或る思いが込められていたのではないだろうか。

<苦難の結びつき>

 紀元一世紀末のキリスト教徒たちが編纂し たヨハネ福音書は、主イエスの十字架事件から七、八十年後の教会の文書である。その点ですでに主イエスとは時代も場所も異にした。他方、ヨハネの教会はユダヤ教からの迫害が一つの頂点に達した逆 風の中にいた。紀元八五年にユダヤ教指導者たちは、キリスト教徒 を異端として呪いの宣言をしてユダヤ人共同体から追放を決めた。 そこから起こった迫害がヨハネの教会にも及んでいたのである。そ の迫害と苦難の時代を生きる体験によって、ヨハネの言葉遣いは独 特のものになったと思われる。つまり、ヨハネは、主イエスと直弟 子たちの迫害された体験を、あえて「世に憎まれる」と一般化した 表現にしたのだ。この表現で、いつの時代にも起こる迫害の体験に 意味を拡大したのである。こうして、主イエスと直弟子たちの苦難 の体験とヨハネたちの苦難の体験は結びつく。かつて主イエスが苦 難を体験し直弟子たちもそれに続いた。いまやヨハネたちもそれら に重なる体験として、自らの苦難を理解できる。

<僕(しもべ)は主人にまさりはしない>

 当時、立場の弱い少数者だった ヨハネ教会のキリスト者たちは、ユダヤ教も含む宗教や文化、また 社会の主流から敵視され、迫害の苦難を味わった。その現実とどの ように向き合うのか。きわめて重大な問題だった。その逆境の中で ヨハネは、自分たちも主イエスや直弟子たちと共通する苦難の下で 生きているのだというイメージを描いてみせた。しかし、注目すべ きことは、むしろ次の点にある。それは、ヨハネが「僕は主人にま さりはしない」と主イエスの口に語らせたことだ。これは一三章一 六節に「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者 は、遣わした者にまさりはしない」と記された言葉の引用だ。この 言葉は主イエスと弟子との関係を比喩している。つまり僕、あるい は遣わされた者である弟子たちは、主人、あるいは遣わした者であ る主イエスを越えないというのだ。さらに言えば、キリスト者は主イエスと違った者ではありえず、主イエスと同じ道を歩むことにな ると言うのである。いまも社会の主流の人々が、少数者のキリスト 者を敵視したり排斥するのは何故か。この切実な問いに対して、ヨ ハネは、キリスト者は主イエスに倣って生きようとするから苦しむ のだと答える。ヨハネの確信によれば、キリスト者は自らの信仰の 故にその時代の中で苦しみや困難に直面するのである。

<主イエスに従うならば>

 もっとも、ヨハネの確信は、キリス ト者の信仰は全て苦難の体験だと断言しているのではない。キリスト者の信仰はその本質の故に、社会や人々のあり方にどうしても抵 抗しなければならず、また不服従を示さなければならない時がある と教えているのだ。なぜならば、キリスト者の信仰とは、主イエス の生き方に倣って生きる志の上に育まれるからだ。主イエスに倣う 時、私たちキリスト者は主イエスが信じたように最善と慈しみをも って全てを支配する神を信じる。そうであれば、どうしても己を絶対として神の如くに支配する権力者の奢りや社会の罪を座視できない。主イエスに従う時、私たちは慈しみの神に答えて歩んだこの方の如く、隣人と共に生きることを祈り、また言葉と行動でそれを証しようとする。そうであれば、苦しむ人、悲しむ人、差別されてい る人は、私たちを奉仕の生活に促す神からの大切な隣人となる。こ うして私たちキリスト者は、主イエスの信仰と生き方をたどってい く。これらのことを踏まえるならば、ヨハネ教会の苦難は、単にユ ダヤ教とキリスト教という宗教の思想の違いや勢力争いから生まれ たのではないことが分かる。主イエスに従う信仰を、自分の時代の 中で誠実に生きようとしたからこそ苦難が生じたのである。

<想起の信仰を生きよ>

このヨハネの確信と志に私たちの心を留めたい。それは、キリスト教信仰をこの世の成功や自分の利益に 奉仕する宗教だと考えるならば、それは全くの誤解だと教えている。 またそうした期待をイエス・キリストへの信仰に求めるならば、そ の人は失望を味わうと教えている。ヨハネが示すのは、むしろその 逆の信仰の道だ。それだけに、私たち自身が時としてキリスト者で あることにためらいを覚えるのも事実だ。しかし、ためらい迷う時、 「わたしが言った言葉を思い出しなさい」との一八節の言葉に思い を傾けたい。そして、あなたは私の道を歩む者なのだからと主イエ スは言う。その主の言葉を繰り返し想起し、臆病な自分に支えと導 きを願うのが、私たちの信仰に他ならない。

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