2004年5月2日 「すでに知られている」

ヨハネ福音書21:15-25/イザヤ書62:1-5

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三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」(ヨハネ二1:17)

<何を問われたのか>

 

「わたしを愛しているか」。主イエスのペトロに対するこの一つの問いを、ヨハネ福音書は、三度に渡って繰り返す。ヨハネが意図したのは、キリスト者が主への服従のあり方を自らに問うてみるための戒めだったことは確かだろう。それを示唆するかのようにペトロの答えは主イエスに従う弟子としての愛を告白する。彼の告白は三度の問いに対して変わらない。そして、主イエスはペトロの答えを否定しなかった。ところが、同時にそのまま肯定もしなかったのである。主イエスの問いは、単に弟子の愛を問う以上の何かを意味していたのではないか。そのことが、ペトロに、また私たちに問われているのではないだろうか。

<ペトロはそれを理解していなかった>

この物語で、主イエスは、ペトロに繰り返し問い直す。しかし、決して彼の告白を偽りとして否定しない。私たちはこのことに深く思いを留めることが必要だ。なぜならば、ペトロの告白は、十分に偽りと見なすことができたからである。ヨハネ一八章の語る十字架事件で、ペトロは自分の身を守るために主イエスを知らないと偽りを語る。さらに彼は主イエスの傍らから独り逃亡を図っている。それらの一つひとつを考えれば、ペトロの弟子としての愛の告白など、とうてい信頼に足りないと見なしてもいいはずだ。あるいは、大きく譲って考えれば、ペトロ自身の後悔の思いと負い目の心を認めることはできるかも知れない。ペトロは「あなたを愛している」と直截に語らずに、主イエスよ、あなたはわたしの愛の心を知っておられると、ためらいを滲ませて答える。それらの言葉は、彼の心の痛みを語っているとも見える。しかし、いずれにしても、ペトロは自分の愛を主イエスに告げて答えとした。彼は、たとえ自らに深い後悔やためらいがあったとしても、なお主イエスに向けた自分の愛の心こそ、自分の真実だと考えていたのではないか。しかし、その愛は、主イエスによって繰り返し問い直されねばならなかったのである。いまだ決定的な何ごとかを、ペトロは理解していなかったのではないだろうか。

<あなたは何もかもご存じです>

「主よ、あなたは何もかもご存じです」。一七節のペトロの告白はこの一言から始まる。三度目に至って、それまでと異なって、彼は、もはや自分が主を愛していることから語ろうとしない。むしろ、主イエスこそがペトロの愛の全てを知り尽くしていると認めることから始める。このペトロの告白の変化を見据えなければならない。主イエスこそ、ペトロの愛が何であるかを全て知ると言う時、それは、自らの愛の本質を本当に知り得ていないというペトロの自覚を語るのではないだろうか。もとより、復活の主イエスを神と等しい方と確信する信仰のうちに福音を記しているヨハネにとって、主イエスの全き知と人間ペトロの知は隔絶する隔たりをもって考えられている。主イエスの測りがたい知の前に立つペトロは、自らの無知をこそ知らねばならないのである。そうであれば、一七節のペトロの告白は、単に主イエスの神秘的な英知を告白するだけでなく、ペトロの無知をも告白している。再びペトロの愛とは何かを問わなければならない。ペトロの愛の心を主イエスは決して否定しない。しかし、ペトロは、その愛がいかに貧しく頼り無いものであるかを同時に知らなくてはならなかった のではないか。主イエスはペトロの貧しい愛の限界を知りつつ、彼 の愛を受けとめているのである。大切なことは主イエスの愛が先に あると気づくことである。彼の先立つ愛は、脆く頼り無いペトロの愛を全てを承知で受入れ包み込む深さを備えている。主イエスの愛のその深さに包み込まれることを私たちは罪の赦しと呼ぶ。この罪の赦しの故に、ペトロの貧しい愛は、たとえ貧しくても決して虚しいものに終わらず、主イエスにおいて神の永遠に結びつけられる。それ故にペトロは彼自身の愛ではなく、主イエスから差し出される愛に確かな信仰の源を見いださねばならない。こうしてペトロの第三の答えは、次のように言い換えてもいいのではないか。「主イエスよ、あなたはわたしの貧しい愛がどのようなものであるのか、全て知っておられます。しかし、それだからこそ、このわたしの貧しい愛を受け取り包んでくださっているのだと知りました」と。

<すでに知られている>


私たちは自分の信仰の源を何処に認めているだろうか。私自身のいだく主イエスへの愛であろうか。しかし、私たちの愛の貧しさは、この方によってすでに知られている。確かなのはこの方の赦しの愛である。私たちはその赦しの愛をただ一つの頼みとして、私たちの貧しい愛を差し出すに過ぎない。それ故に、だれも思い上がってならないし、自惚れてはいけない。私たちは自分の何かによって、主の弟子である歩みを保っているのではない。ただ、この方に向かって開かれた空の器とされるように祈ろう。空っぽのわたしであればこそ、主イエスの赦しの愛は私の空虚を満たすことができる。そして、その愛に満たされてこそ、私たちは復活の主イエスの手にある道具とされるのだし、彼の和解と平和の働きに用いられるのだから


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