2004年4月25日 「労して生きる人の主」

ヨハネ福音書21:1-14/イザヤ書61:1-3

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 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはし なかった。主であることを知っていたからである。
                                      (ヨハネ21:12)


<神から遠い人々?>

 

 かつてフランスのシャルトル大聖堂のステンドグラスについて論じた神学者がいた。その人によれば、シャルトルのステンドグラスは、中世の人々の姿を対照的な二つの姿で描いて見せる。第一は聖人や高貴な身分の人々。第二は農民など生きるために汗して働く低い身分の民衆たち。第一の人々の姿は異常なほど縦に細長く描かれ、第二の人々は、みな一様に押しつぶされたように背が低く描かれている。二つの姿の違いはある信仰を説明したのだという。第一の縦長の人々は天に近い人々、いわば天におられる神に近い人々であり、称賛に値する。他方、第二の潰れた人々は、天から遠く地を這うように生きる者たち、つまり神から遠い人々であり、その生き方は褒められない。生きるために労して暮らすような人々は、神についてゆっくりと黙想する余裕もなく、教会の繁栄に特に貢献するのでもない。そんな人々は、神の目からも遠い存在なのだという。先の神学者は、シャルトルのステンドグラスの類ない美しさを認めつつ、その信仰には大いに疑問を抱いている。私たちはどのように受けとめるだろうか。

<日々労して生きる人に>


 ヨハネ福音書二一章一節〜一四節は、復活の主イエスは生きるために働く弟子たちの間に姿を現したと語る物語である。これは、この物語の際立った特色と言っていい。物語の場はティベリアス(ガリラヤ)湖畔である。そこは主イエスの弟子たちの故郷であり、彼らの労働と生活の場であった。ヨハネが伝えるのはまさに汗をかき労して働く日々を生きる弟子たちの姿である。彼らは暮らしを立てるために漁をしなければならない。そのために集まり船を漕ぎだす。しかし徹夜の労働も不漁に終わる。最後は、翌朝の岸辺での質素な食事で締めくくられる。弟子たちは、生きるために日々労する人々であった。その日常の直中に復活の主イエスはお出でになったとヨハネは語る。復活の主イエスは、生きるために日々労する人と出会い、その人と固く結びつこうとする主として信じられているのである。

<復活の主が訪れる>


 それ故、一二節が「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と語る時は、それは、弟子たちと固く結びつく方、復活の主イエスを、一層はっきりと示しているのではないだろうか。朝の食事に招かれた弟子たちは、だれもがみなかつて主イエスを見捨てて逃げ去った者たちだ。その信仰と生き方を決定的に問われたその瞬間に、信仰も生き方も保ち得ない自分の弱さと罪を徹底的に 露にした一人ひとりだった。ただしかし、そういう一人ひとりにも、例外なく捨てられないものがあったのではないか。それは生きるために労する日々の生活だ。彼らのその生活は、主イエスとの出会いの前から彼らの人生の姿だったはずだ。主イエスと出会ってその神の国の運動に参加した間にもその日々は続いていた。そして十字架事件の残酷な結末を経てなお、弟子たちは、その日々労して生きる人生をたどり続けなければならなかっただろう。その弟子たちは、もはや現実世界で生身の主イエスを見ることはない。その事実を前にいったい彼らの人生の何が変わったのだろうか。イエスの運動の壊滅を身を持って味わった挫折感を沈殿させて日々ただ黙々と労して終わるということでしかないのだろうか。しかし、ヨハネは確信して語る。復活の主イエスは日々労する者の人生の中にお出でになると。六節が思いがけない大漁を語る時、それは、労して生きる者の日々を支える復活の主の確かさを訴えている。九節が備えられた朝の食事を語る時には、自分の人生に労した後に主イエスの癒しと回復が待っていると語っている。また同時に人生の労苦に立ち向かう者に、その日を支える糧が備えられると語っているのではないだろうか。こうしてヨハネは、復活の主イエスが日々労する人を支え導いてくださると信じるように促しているのである。


<労して生きる人の主>


 もとより、私たちの人生には、困難な課題が待ち受けている。その現実は相手を選ばない。信仰者ならば、人生の困難を避ける特別な道を持っているというのではない。困難に立ち往生してもう駄目だと感じたり、どうして自分だけがこんな目に会うのかと嘆くことは、誰にも起こりえる。それは過ぎ越していかなければならない。ただ私たちは、復活の主イエスと出会ったと感じ、いまも彼に導かれていると信じる時、苦闘する自分を支え続けてくれる力の存在を実感することも確かである。そしてまたその苦闘を見つめるもう一つの眼差しが、自分の中に育まれていくことに気づく。それは人生の意味のさらに深い次元を気づいていく体験である。日々労して生きる現実は容易に変わらないとしても、それにもかかわらず深い充足と感謝と信頼を見いだすことができる。ヨハネは、復活の主イエスがその日々を先立つと信じている。私たちもまた、自分の日々の苦闘や挫折をあるがままに訴え、過ぎ越す力をくださいと祈る所から始めようではないか。復活の主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と慰労と備えに招かれる。彼は労して生きる人の主である。その支えと導きを信じて、私の直面する日々の困難に立ち向かう一歩を踏み出そう。


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