2004年4月18日 「赦しの霊」

ヨハネ福音書20:22-23/出エジプト記15:1-11

←一覧へ戻る


 そう言ってから彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ29:22-23)


<罪を赦すこと>


 ヨハネ福音書の復活物語の行間には、ヨハネ教会の人々が直面していたと思われる現実、また人々の関心がかいま見られる。冒頭二○章二二節〜二三節もそのような箇所の一つだ。ここにはユダヤ教との関係で分裂の危機に脅かされたヨハネ教会の姿が窺われる。二三節が語る「罪(ハマルティアース)」という言葉がその手がかりを与えてくれる。この言葉は複数形で、数えられる個々の場合を意識している所から、教会内部の個々の人間関係の破れという意味での罪を指していると見ていい。つまり、ここではヨハネ教会の人々の間にあった人間関係の破れ、その意味の罪を赦しあうことが問題になっているのである。そして、ヨハネ教会の人々は、個々の罪を赦す行為を、復活の主イエスが弟子たちに現れた時、まず与えた戒めとして理解したのである。言い換えれば、復活の主イエスに出会った者は、先ず人の罪を赦す者でなければならない。このことは、ヨハネ教会にとってきわめて大切なメッセージだったと思われる。それは教会を和解と信頼と一致に向けて救い出すメッセージという意味だ。この点に注目するならば、これらの節に対する一つの伝統的な理解に疑問が生じる。この箇所は、しばしば教会に託された赦罪の権威を裏付けていると説明されてきた。しかし、それはこの物語そのものから読み取る理解としては飛躍に過ぎるのではないか。この言葉は、赦しの権威の委託という前に、ヨハネ教会にとっては、教会分裂の危機を克服して希望に向かうための生きた導きの言葉となったことを見過ごしてはならない。むしろ、その意味を深く掘り下げて考えることではないだろうか。


<服従としての赦し>


  たしかに、この物語は、罪の赦しを主イエスの「命令」という印象で語っている。そのために、この戒めは教会の持つ権威を示す言葉と読み解きたくなるのかも知れない。しかし、ここで語られる罪の赦しは、決してこれを聞く者に権威を保証する心地よい言葉ではあり得ないだろう。なぜなら、そもそも、これを聞いた弟子たちにとって、復活の主イエスが自分たちに現れたという体験は、その体験そのものが赦される体験だったからだ。主イエスの死の直後、弟子たちの誰もがイエスを見捨てて逃げ去ったのであり、ユダだけでなく弟子の誰もが裏切り者だったと言わねばならない。その罪の後悔と敗北感に打ちのめされていた直中に、彼らに対して復活の主イエスが自ら呼びかけてくださったというのが弟子の体験だった。復活の主との出会いとは、弟子の誰にとっても主の赦しに与ることを意味したのである。その赦しに応えて主イエスに従うのであれば、従う者にとって、赦しとは主イエスの憐れみに応える真剣な服従の行為だったはずだ。だからこそ対立と分裂の危機に脅かされたヨハネ教会の人々にとっても、この戒めは、何よりも先ず、赦されて生きる者として、隣人の罪を赦して生きる責任を主に対して負っているのだと自覚させたのである。


<赦しを生きよ>


  このように考えるならば、二三節の言葉は、罪を赦す行為がヨハネ教会の人間関係をどのように作り変えていくのかを見事に語っていることが分かる。赦されているからこそ今ある者が、率先して、兄弟姉妹である隣人を赦す。そうすれば、そこに人々がお互いに赦しあうという出来事が起こってくる。他方、これとは反対の場合はどうか。赦されて生かされている者が、隣人を赦そうともせず、相変わらず裁く生き方を続けている。そうしている限りは、人々の間に和解も信頼も一致も生まれない。人間としての関係が破れたままの状態、つまり罪の状態、傲慢と不信と分裂が自分も含めて人々を支配し苦しめ続ける。あらためて言いたい。主イエスは赦す権威を委託したのではない。赦すことを行動に現す生き方を一人ひとりに委託されたのである


<赦しの霊の導きを求めつつ>


 ひるがえって、私たち自身を振り返ってみたい。主イエスの赦しに私たちは、どのように応えられるのか。それは二つの方向において私たち自身の具体的な生き方になるのではないか。第一は、自分というものを相対化できることである。それは、隣人の言葉を通じて、また密室の祈りを通じて、私たちに内省と謙虚さを促す聖霊の語りかけに静かに耳を傾けることから始まるだろう。第二には隣人に対する尊敬と信頼である。言葉を換えて言えば、隣人の中に働いてその人を導く聖霊への信頼でもある。教会が一つとなって困難な課題を克服できる道は、この赦しの行動にかかっているのではないだろうか。そして、自分が相対的な者であり、隣人への責任があるのだと自覚した人は、同時にこの課題は聖霊の導きによらなければ担えないことも理解するだろう。それ故、主イエスの言葉は先ず次のように語られたのではないだろうか。「聖霊を受けなさい」。私たちも切に聖霊を求めよう。私たちを赦しの行動に導く聖霊を求めよう。そして赦しの行動をためらうことのないよう神に祈ろう。私たちは、教会の権威などと大上段に構えて振りまわす必要はない。権威よりは謙遜を求め、隣人を受入れ、赦すことに真剣であろうと志せばよい。私たちの信仰と教会に対する人々の信頼は、そこにこそ育まれるのだから。

←一覧へ戻る