2004年4月11日 「わたしは主を見ました」

ヨハネ福音書 20:1-18/イザヤ書55:1−11

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 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとに上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:17−18)

<主イエスの拒絶?>

 「わたしにすがりつくのはよしなさい」。ヨハネ福音書は、主イエスからマグダラのマリアに向かって発せられた言葉として、これを記す。主の弟子としてのマリアの存在感は、女弟子たちを軽視しがちな福音書においても際立っている。彼女こそ主イエスの生前も死の直後も、常に深い愛情で主イエスに従った弟子だったことは間違いない。そのことを念頭におく時、わたしたちは次のような想像を巡らせても必ずしも的外れではないだろう。この一七節に至る物語では、いまや主イエスを失って失意の極みにあったマリアが、自分の名を呼ぶ声と共に再び主イエスを見いだしたのだ。そうであれば、喜びのあまり思わず主イエスにすがりつくのは当然すぎる行為だったのではないか。否、マリアに限らず誰もがそうしただろう。そのように深く主を慕うマリアに対して、主イエスの応答が拒絶を意味したと見なす結論で、本当にいいのだろうか。むしろ、大切なことは、思い溢れて主イエスにすがりつくマリアと、それに答える主イエスとは、いったい、どのように応答しあっているのかを深く思い巡らすことではないだろうか。

<共にある約束>

 すがりつくマリアに対して「すがりつくのはよしなさい」と応じる主イエスの言葉の意味は、難解なものではない。この言葉に続く「まだ父のところへ上っていないのだから」というくだりに注目したい。このくだりは、原文では次のように訳しうる。「私はまだのぼって父のところにいるわけではないのだから」(小林稔訳)。つまり、主イエスを再び見失うまいとすがりつくマリアに対して、主イエスは「わたしを捕まえておかなくても大丈夫。まだ父のもとには上らず、あなたと共にいるのだから」と応じているのである。主イエスを失って悲嘆のどん底に悲しみ、不安の淵に沈むマリアにとって、あなたと共にあるという主の約束以上に必要とした言葉はなかっただろう。このことを心にとめれば、主イエスは単純に拒絶を語ったのではなく、今なお共にあるとの約束をマリアに与えたと見る方が物語の展開において適切であろう。もとより復活の主イエスに出会う体験とは、主イエスが今なお彼を慕う者と共にあることを確信させられる体験に他ならない。マリアの出会った復活の主イエスは、変わらない慈しみの方であった。自分にすがりつくという行為のうちに現わされた彼女の不安と恐れを、主イエスはしっかりと受けとめ、取り除いておられるのである。

<復活の主が捕らえ先立つ>

 その上で私たちは注目したい。マリアの不安を取り除く主イエスの言葉が、しかしなお「すがりつくのはよしなさい」と、距離をおく戒めの言葉だったことだ。マリアは再び主イエスを見失わないために彼を自分の手に捕らえておこうと咄嗟に判断したのではないか。しかし、主イエスはその必要はないと言われた。私たちが彼を捕らえているのではない。彼が私たちを捕らえているのである。このことは、マリアの内面のあり方をも問うものだ。マリアはそれまでの主イエスをよく理解し、長い経験を数える弟子であった。しかし、その意味で、主イエスを彼女自身の経験と理解の手の中にとどめておくことはしてはならないし、主イエスによって退けられたのではないだろうか。復活の主と共にいま新たに歩みだす時、マリアの過去の経験は新たな服従の妨げとなってはならない。マリアが再び主イエスに従う時、誰もがそうであるように、彼女もまた未知の歩みの中に分け入る初心者というべきだからである。もとより復活の主イエスは、私たちの思い計りを越えて、時にはそれに逆らって、自由にその働きを世の終わりに至るまで続けられる方である。その歴史の途上において、彼は私たちを捕らえ、私たちは彼に捕らえられる。彼は先立ち、私たちはその後に従う。そのことを弁える時、私たちは主イエスの導きの深さ、広さ、豊かさを、さらに新たに発見できる。

<わたしは主を見ました>

 今、新たにキリスト者の生活をスタートする人に申し上げたい。主イエスはあなたを捕らえて新しい経験に導いて下さる。今までの人生であなたの心を縛ってきたものから、自由にされる体験を与えてくださる。これは復活の主イエスの約束である。このことを信じて主イエスに従う者として歩んでいただきたい。また、これまで既にキリスト者の人生をたどってきた者は、あらためて謙遜を学びたい。私たちは、洗礼とはゴールではなくキリスト者の人生の入学式だと聞いてきたのではないか。さらにこうも聞いたであろう。ただしキリスト者には卒業式はないと。この卒業式のないことこそ、私たちに対する神の慈しみである。それは、主イエスの導きは、私が今日まで得た体験や知恵を越えて、いつも深く、広く、豊かで、及び難いことを意味している。私たちはその及び難き主イエスの導きに、繰り返し自分を明け渡す者でありたい。その時、私たちは、マグダラのマリアと共に、「わたしは主を見ました」と彼の深く広く豊かな導きを生き生きと証しする自分を見いだすに違いない。

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