2004年4月4日 「主イエスの証し」

ヨハネ福音書18:28−40/創世記22:1-18

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 そこでピラトが、「それではやはり王なのか」というと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)

<権力を持っているか>

 ヨハネ福音書18章37節が伝えるのは、主イエスとピラトとの間に交わされた短い言葉だ。「それではやはり王なのか。」とピラトが問う。この問いの意味は容易に理解できる。ピラトは、主イエスに対して、お前はどんな権威・権力を持っているのかと問うたのである。支配者ローマ帝国のユダヤ総督として君臨したピラトは、主イエスを十字架によって処する権威とそれを実行できる権力を握っていた。どっぷりと権力の中枢に漬かって生きてきたこのローマ貴族は、このような問いつまり人間を権威や権力との距離で推し量る流儀に、何の疑問も感じなかったのだろう。というより、富や権力の獲得に幸いを求めるこのような問いしか、この人からは出てこなかったのかもしれない。

<真理を証しする>

 このピラトに対して主イエスは、どのように、また何をお答えになったのだろうか。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」と主イエスは語り始めている。権威や権力が大切だというのは、ピラトよ、あなたの言い分、つまりあなたの人生のものさしであってわたしのものではない。こう理解していいだろう。穏やかな物言いの中に主イエスの断固とした拒絶の意思が示される。しかし、主イエスはピラトへの拒絶も批判もそれ以上は語らない。主イエスにとって、決定的に大切なことは、ピラトの物欲に縛られた心をはるかに超えたところにあった。「わたしは真理を証しするために生まれ、そのために世に来た」と彼は言う。主イエスの生命の瀬戸際の限界状況において、わたしたちは、彼について、もはや周辺的な問いを取り上げる猶予を持たない。本当に究極的な問題だけを問わなければならない。主イエスが何を究極の問題としたのかを心を傾けて聴かねばならない。それは、ピラトの関心とは遠く隔たっていた。主イエスは、新たな政治権力者となって支配を確立することだとは言わなかった。それは、ユダヤ教指導者たちが警戒したことともまったく違っていた。主イエスは、新たな宗教的権威者となって一宗一派を創立することだとも言わなかった。あるいはそれは、民衆の期待したこととも大いに違っていた。主イエスは革命的抵抗の英雄となり、死しても誉れを残すことだとも言わなかった。ただ彼は、それは「真理を証しする」ことだといったのである。

<主イエスの真理>

 それでは、主イエスの言う真理とは何か。まずそれは神の国、すなわち神のご支配にかかわることであったことを理解しなければならない。主イエスは彼の命を捧げつくした営みを「神の国は近い」と告げ、人々を癒し勇気付ける日々の行動として開始したのである。(マルコ1:15)それは彼の言う真理が頭の中だけの内面的な悟りといった意味ではないこと、むしろ神の呼びかけに応える具体的な生き方に関わっていたことを示している。主イエスの真理とは、彼が身をもって生きた生き方でありその生き方をたどった、彼という人そのもののことであるといえるのではないだろうか。彼の真理が教えの解説ではなく、事実の証しとして示される真理だというのは、それゆえである。確かに彼の証しとは彼の生きた事実そのものであった。彼は、辺境とみなされたガリラヤの人だった。彼は母とのつながりを認知されていたが、父が誰であるかを訝しがられ、時には父親不明の子として理不尽な扱いを受けた人だった。彼は貧しい人々の中にその一人として、額に汗して働き暮らしを立てた人だった。彼の日々は、心であれ体であれ、また男であれ女であれ、誰であるかを問わず誰であれ誰からも顧みられずに衰えようとする人、失われようとしている人に自ら寄り添う生活だった。しかも、どのような境遇にも事態にも、神は最善の道を開いてくださる方だと信じて行動していた。彼の信じた神は慈しみの神であった。彼は人間の中に残酷・身勝手・無慈悲・怠惰・悪意等等罪を見抜いていたが、それにも関わらず人間は、神にとって哀れみを注ぐべき神の子どもたちだと信じて人々に接した。今や彼は十字架に追いやられるまでの罪の力にさいなまれている。しかし、彼はその日まで生きてきた生を、今なお生き抜こうとしている。はたして主イエスの真理をこのように語る以外にどのように語れるだろうか。繰り返しこういう他にないのではないか。主イエスの真理とは、彼の生き方であり、まるごとの彼そのものであった。それ故、主イエスが「真理を証しするため」という時、彼はその生き方と自らをわたしたちに差し出そうとしていたのではないか。

<無償の愛>

 わたしたちが主イエスから差し出されているものは、この世の富や力を手に入れるための宗教や信仰という名のご利益の秘訣ではない。一宗教の教えを語りつくすような知識でもまたその宗教への燃えるような忠誠心でもない。さらには、自分の主義や行動の正当化を擁護してくれる都合のよい大義名分でもない。改めて言いたい。主イエスの真理とは、彼の生き方であり、彼であり、それらを通じて示され続けた神の無償の愛である。そしてこの方の示した無償の愛は、十字架の道を独り歩みきられるその姿において、いっそう明らかにわたしたちに差し出されている。主イエスの十字架を繰り返し思い起こしつつ一週間を歩みだそう。

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